つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< July 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
坂口恭平『現実宿り』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 ver.1.01

 

       

『現実宿り』(河出書房新社)は、坂口恭平の最新小説だ。少し読むだけで、これが坂口恭平のこれまでのどの本とも違っていることがわかるだろう。それまでの坂口恭平の本の特徴は、エッセイであれ、小説であれ、よく知ったキャラクターが繰り返し登場するキャラクターノベルであった。ミッキーマウスやドナルドダックといった何十ものキャラクターが登場するディズニーの世界があるように、坂口恭平の世界も手を変え、品を変えながら同じキャラクターが繰り返し登場する。けれども、『現実宿り』ではフーやアオ、ゲン、父と母、祖父母と言った坂口家の人々も、隅田川のエジソンや多摩川のロビンソンといった路上生活者たちも、前野健太や七尾旅人のようなおなじみのアーチストも出てこない。そして、言語もラテンアメリカ文学におけるマジックリアリズムのように、あるいはアンドレ・ブルトンのシュールレアリズムの自動筆記のように、あるいは文学の極北の世界に立つサミュエル・ベケットやモーリス・ブランショの小説のように、あるいはポール・ヴァレリーの長大な詩編「若きパルク」のように、現実の世界の時間と空間からは隔絶されたような語りがどこまでも続くように見える。

 

言語そのものが、まさに世界文学の空間へとワープしてしまったかのようである。いかにしてそれは可能なのか。

 

これまでの坂口恭平の文章は、覚醒と正気という昼の論理で自らの夜の世界、夢と狂気の世界をとらえようとしたものであった。

 

けれども、『現実宿り』では、夜の世界、夢や狂気の世界を、「あるがままに」は不可能であるとしても、向こう側の秩序・論理にしたがって再構成しようとしているように見える。無限のイメージの連鎖、相互に矛盾する不合理な言説を、あえて合理化することなく、そのままに表現しながら、自然な日本語のかたちにしてゆくというぎりぎりの作業を行っているのである。

 

ベースとなる語り手は、特定のかたちを持たない魂、精霊であるかのようである。この精霊は、つかのまの間、何かの物、何かの動物、何かの人へと宿り、そこで息をする。しかし、次の瞬間には、別のものになっている。語り手は流転する万物、森羅万象の世界の生成とともにある。「〜である」ことが覚醒と正気の世界の論理であるとすれば、「〜になる」ことが夢と狂気の世界の論理である。ドゥルーズ=ガタリ的生成変化の論理にしたがって、向こう側の世界は表現されているのである。

 

しかし、正確に言えば、『現実宿り』の語りは四つの系列からなっており、それぞれに現実との距離を異にする。

 

第一の系列は、「わたしたち」の名で語り続ける語り手によるものである。砂漠や森のイメージより始めるこの語り手は、書くことそのものと、さらには読むことと、そして図書館とかかわりがある。語り手は、あるとき私たちは砂であると言う。砂とは、風の中に吹かれうごめきながら、この世界を記憶する時間とともに存在する何か、書かれては消えてゆく痕跡そのものである。

 

わたしたちは砂なのだ。わたしたちは砂漠の真ん中にいる。どこにも行くことはできない。もちろん風に飛ばされれば別だ。しかし、そのとき、私たちは書くことができるのだろうか。またそこで言葉を見つけ出すのだろうか。わたしたちは、そこでも書くのだと確信を持って言うことができない。(7,p32)

 

書く存在である「わたしたち」は、人間の後に来るものである。この世界から人間は去り、後に図書館が残された。その書物を読むときに、人間の記憶は蘇り、今はもはや存在しないがかつては存在したトカゲについてわたしたちは語ることができるのだ。

 

この「わたしたち」の世界は、アニミズムの支配する世界、魔法の世界のようであり、否定神学のように、あるいは禅問答のように、ときに理解を拒むような謎めいた言葉を語るのである。

 

森にはいろんなものが生きている。息をしている。息を止めているものもいる。わたしたちは動いていない。わたしたちには手がない。手が欲しいと思ったことすらない。それでもわたしたちには手が届くという、感触は理解できる。わたしたちは集まっているのではない。わたしたち、と言うしかないので、そう書いているが、わたしたちは複数ではない。かといって一つでもない。言葉で書けば書くほど、わたしたちが伝えたいことからは遠くへ行ってしまう。(10,p47)

 

この系列に登場する「わたしたち」の正体を名づけることができるなら、第一の系列は半ば以上解読できたことになるだろう。

 

第二の系列は、「わたし」と語る語り手による系列である。この語り手は、荒野や砂漠のただなかに存在する第一の語り手とは異なり、インターフォンやパジャマ、ライトバン、ヘルメットが存在し、現代社会の住人である。このわたしは砂漠に、そして森に行ったという「おれ」と語る男によって車に乗せられて拉致されたようである。この「わたし」に生じる出来事は、ハードボイルド風のファンタジー、つまりレイモンド・チャンドラーを意識した村上春樹の文章のように、物事は展開する。そして、「わたし」は向こう側の世界へといつしかはまり込んでしまうのだ。

 

しかし、同じ「わたし」を名乗る別の語り手が登場し、別の物語を語り始める。これが第三の系列だ。この「わたし」は坂口恭平その人のようにも見える。「わたし」は熊本市内に住み、本を書き、著書で携帯の電話番号を公開している。その携帯にかけてきた男のはモルンと名乗り、「わたし」のことを「兄貴」と呼ぶ。そして彼の誘うままに、「わたし」はモンゴルへと、ウランバートルへと向かうのである。

 

もちろん、大義としては、自殺者をゼロにしたいという名目があり、死にたい人であれば誰でも電話をかけてきてほしいとわたしは本に書いていた。しかし、実際は、電話をかけてくるということは、本を読んだ人、つまり読者なのであって、わたしはなんらかの形で読者との対話を求めていた。モルンが電話してきたのは、なんの不思議でもなかったのである。(9,p43)

 

この第三の系列は、第一の系列や次に述べる第四の系列とは異なり、多少のシンクロニシティは生じ、スピリチュアルな解釈が加わるものの、この世の法則を超えて理解できないことが起きるわけでははない。だから、読者が道に迷ったときには、9、15、23、24、27、41…とこの「わたし」が語ることのみを拾い集めるなら、話の輪郭をなんとか理解できることだろう。

 

第四の系列は、「おれ」と語る語り手の系列である。この語り手は、「わたし」という語り手を車で拉致したことのある者のようだ。彼は、やがて砂漠と森に行ったことを語り始めるだろう。すると、その世界では、彼は蜘蛛や鳥などさまざまな生き物に、ついには機械にも変身する。この生成変化の世界は、ギリシア神話のようでもあるし、異形の世界を語るその乱暴な語り口はロートレアモンの『マルドロールの歌』のようにも聞こえる。

 

これら四つの系列が、70ある章の中に散りばめられながら、あたかもパラレルワールドのように、それぞれの内部では物語的整合性を持ちながら進んでいくというのが『現実宿り』の基本構造である。

 

しかし、この四つの系列は、とりわけ第50章を超えるあたりからしだいに区別が困難になる。あるときにはいつのまにか「わたしたち」という語り手が「おれ」に変わってしまう。あるときはこの語りは「 」に入れられ、「男」はと三人称で語られてしまうのである。さらに『現実宿り』の世界では、一つの世界の意識や夢が他の世界に影響を与える。そして、いつしか向こう側のものがこちらの存在になってしまうこともありることなのだ。

 

四つの系列を相互に結びつけるのは、一つは語り手や登場人物が見た夢という入れ子の関係であり、もう一つはその語り手が移動・侵入するという交流・交通の関係である。そして、それが進むにつれて四つの系列の独立性もしだいに曖昧になってしまう。なぜならこれらの系列を区別するのは、「わたし」や「おれ」「わたしたち」という語り手の同一性にすぎず、「〜になること」A→B(A≠B)という生成変化の論理によって、この同一性はつねに脅かされる存在だからである。

 

 わたしはしばらくすると目を開けて、再び書きはじめた。書きながら何度も変な夢を見た。夢は少しずつ変わっていき、何度かわたしじゃない人間になっていた。それでもそこで受けた痛みはちゃんと体に伝わってきた。その都度、わたしは目を覚まし、書いた。(41,P175)

 

ある語りは、他の語り手が語った夢の内容なのかもしれない。しかし、夢であれ、現実であれ、いずれの語りも等価なテキストとして『現実宿り』を構成する。個々の断章のイメージは、ほとんどが20字を超えない短いセンテンスでありながら、きわめて明晰である。非現実な出来事を語りながらも、鮮明かつ印象的なイメージは詩的な言語の特徴である。

 

四つの系列は、相互に干渉しながら、それ固有の音楽と、倍音におる反響を奏でる。第一の系列と第四の系列は、とりわけ詩的な要素が強い。前者「わたしたち」の系列は、世界の変化そのものを語った叙事詩であり、後者「おれ」の系列は語り手の変身と放浪の過程を語った叙事詩である。

 

幾重にも重なるストーリーやイメージの中に何を感じ取り、どこに相互の連絡通路を見出し、どのような世界地図を描き出すかは、読者しだいである。しかし、意味の彼方に、不合理な夢の世界が純粋な言語の宇宙へと結晶化され、詩として心地よく響くことはどんな読者にも実感できることだろう。

 

『現実宿り』は、いきなり世界文学の異世界に転送され、突如として出現したモノリスのような、小説と散文詩が融合した世界レヴェルの突然変異的傑作なのである。

 

参照リンク:

著者インタビュー『現実宿り』坂口恭平

都甲幸治による『現実宿り』レビュー:崩れ去る「近代小説」の枠組み…読者を感覚の冒険に誘う

 

関連ページ:

『ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 坂口恭平』
坂口恭平『家族の哲学』
坂口恭平『幸福な絶望』
 PART2(地名索引)
PART3(人名事典)
PART4(書名事典)
PART5(音楽・映画事典)
坂口恭平の熊本−それからー

坂口恭平『ズームイン、服!』
坂口恭平『隅田川のエジソン』
坂口恭平『現実脱出論』
坂口恭平『坂口恭平 躁鬱日記』
坂口恭平『徘徊タクシー』
坂口恭平『坂口恭平のぼうけん 1』
坂口恭平『TOKYO一坪遺産』
坂口恭平『モバイルハウス 三万円で家をつくる』
坂口恭平『幻年時代』
坂口恭平『思考都市』

コメント
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://mkamiya.jugem.jp/trackback/670
 

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.