つぶやきコミューン

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新海誠『小説 君の名は。』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 ver.1.1

 

 

『小説 君の名は。』(角川文庫)は、2016年の秋大ヒット上映中の新海誠監督映画『君の名は。』の、新海誠自身によるノベライズだ。「あとがき」の中で、新海はこの本について次のように書いている。

 

 本書『君の名は。』は、僕が監督をして二〇一六年の夏に公開されるアニメーション映画の小説版である。つまり映画のノベライズなわけだけれど、実はこのあとがきを書いている時点ではまだ映画は完成していない。完成まではあとまだ三ヶ月くらいかかりそうである。小説版の方が先に世に出るわけで、だからまあ、映画と小説とどちらが原作なのかと問われると微妙なところだ。

 

ある程度アニメーションが描かれ、最終的な編集が終わる前の執筆ということになる。監督自身によるノベライズは『ラヴレター』など多くの作品のノベライズを手がけ出版している岩井俊二が定評があるが、自らを「小説に片想いをしている」映画監督と位置づける(『小説 言の葉の庭』あとがき)新海もまた、映画と小説のメディアの違いに関して自覚しながら、このノベライズに取り組んでいる。

 

 小説と映画で物語上の大きな違いはないけれど、語り口にはすこし差がある。小説版は瀧と三葉の一人称、つまり二人の視点のみで書かれている。彼らが知らないことは語られないのだ。一方、映画はそのそもが三人称――つまりカメラが映し出す世界である。だから、瀧と三葉以外の人物を含めて文字通り俯瞰で語られるシーンも多くある。どちらも単体で十分に楽しんでいただけると思うのだけれど、このようにメディアの特性として必然的に相互補完的になっている。

 

ノベライズにあたっては、前作の小説版『小説・言の葉の庭』同様、人物のモノローグが順に行われる形をとっているが、この『小説・君の名は。』では、テーマがテーマだけに、その方法が極限まで磨き上げられている。たとえば、二人の心がシンクロする場面では、

 

私は、

   だれかひとりを、ひとりだけを、探している

俺は、

 

のような実験小説やアポリネールの詩のような書き方をしている。その文章をもしも朗読する場合を考えるなら、一人のナレーターではなく、二人の声優によるラジオドラマのようなかたちがふさわしいだろう。

 

物語は、東京の高校生である立花瀧と、山奥の高校生である宮水三葉の意識が入れ替わることから始まる。その手法は、一見大林宜彦の『転校生』を思わせる。異性の身体を持って生活しなければいけないことへの衝撃・戸惑い。だが、同時に見知らぬ生活や友人・家族たちに取り囲まれ生活することへの好奇心もある。瀧(三葉)は、あこがれの東京のスイーツを楽しみ、瀧が好意を寄せるバイト先の奥寺先輩との会話を楽しみ、三葉(瀧)は男ぽい髪型や服装ながらも体育の時間に大活躍し、瀧は奥寺とのデートにまでこぎつけ、三葉も男子にも女子にもモテモテになってしまう。それぞれの意識は翌日の朝には元に戻るので、『転校生』にある元の身体に戻れない不安や焦りもない。すべては単なるラブコメのように進んでゆく。もしも、三葉の住む町が実在するなら、あとは携帯電話の番号さえ知り、電話をかけることで二人の間の距離は解消してしまう。二人の存在は互いに特別な存在になるかもしれないが、そこから後はファンタジーの入り込む余地はないはずだ。

 

しかし『君の名は。』は、単なるラブコメではない。

 

あるところで、二人の入れ替わりは途絶える。瀧が三葉の携帯電話の番号にかけても通じない。

 

間違いなのだろうか。その場所は、実在しないのだろうか。

 

入れ替わった後は夢を見たように、すべての記憶が曖昧だが、それを頼りに瀧は訪れようとする。そして知った驚愕の事実。

 

そう。瀧と三葉は単に空間的に隔てられていただけでなく、時間的にも隔てられていたのだ。

 

ここから先は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的な展開だ。

 

その鍵となるのが、組紐であり、神事で行われる口噛み酒である。

 

それらは単に三葉の町のローカル性を強調するための道具ではない。デロリアンのような科学的タイムマシンではなく、神話的タイムマシンなのだ。三葉の祖母は語る。

 

「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神さまの力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕しとる。」

 

そして最も重要な伏線は、三葉(瀧)が祖母とともに、神事の締めを行う次の場面にある。

 

「彗星……」

 もう一度、俺は声に出している。なにかを忘れているような気が。ふいにする。目を細め、俺も西の窓を探す。それはすぐに見つかる。ひときわ明るい金星の上に、青く光る彗星の尾がある。なにかが記憶の底から出たがっている。

 そうだ。以前も、俺は、

 この彗星を

「おや、三葉」

 気づくと、婆ちゃんが覗き込むように俺を見上げている。黒く深い目玉の底に、俺の影が映っている。

「……あんた今、夢を見とるな」

 

最終的には、なぜ二人の意識の入れ替わりは生じたのかという問題に行き着くのである。

 

『君の名は。』を見た人が流す涙とは単に、「前世」の記憶がこだまする運命的な異性、かたはれとの再会の喜びだけではない。

震災後5年につくられた『君の名は。』の中には、必然的に3・11の記憶がこだまする。そこで死んだ何万という人の魂を、鎮めきれないままに、後に残された人々の思い。その失われた人々を、再びこの世に呼び戻し、生命の輝きを取り戻させることの不可能性。

 

その不可能なるものを、『君の名は。』は可能にしてしまう。そのとき、都会であろうと田舎であろうと、日常生活のさりげない現実が奇蹟のように輝きだす。カタストロフの記憶を抹消してしまうことの非を咎める声もあるが、それは単に現実を反映しているだけだ。この作品が与えるカタルシスによって、私たちは3・11からほんの一歩だけ前に進んだのである。

 

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