つぶやきコミューン

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松村由利子『少年少女のための文学全集があったころ』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

『少年少女のための文学全集があったころ』。思わず読書家の心をくすぐらずにはおかないタイトルである。読む前から、自分自身の幼少期の読書体験が、本にまつわるさまざまな思い出が、著者のそれとはかかわりなく、脳裏をかけめぐる。それはただ単にあの本、この本というモノの記憶だけでなく、図書館や実家の書斎、子ども部屋、学校の教室など、本のあったあの場所、この場所の思い出でもある。そして、親や親類、先生、友人といった、本を買ってくれたり、貸してくれたり、教えてくれたりしたあの人、この人の思い出でもあるのかもしれない。この本を開く前から、ゼロ歳代から十代にかけての、私的な読書体験の一切が、背景知識として意識的無意識的に、読者の中で準備されてしまっているのである。

 

しかし、本書を開くと、あらかじめ想像したのとは別の風景が広がる。松村由利子によって紹介される本の数々は、私たちがイメージするような近くの小さな空き地のの草花などではなく、ずっと広大で多様な植物が生い茂る裏山の雑木林のような生態系を形成していることに読者はまず驚くのである。

 

私たちの大半が知っている少年少女のための文学(それは必ずしも読むことを意味しない)、たとえば『にんじん』、『若草物語』『あしながおじさん』、『フランダースの犬』や『赤毛のアン』といったタイトルの傍らには、そしてその奥には別のタイトルの本が続いている。それを矢継ぎ早に紹介されることへの驚き、著者がそのほとんどに少女時代に遭遇してしまっていることへの驚きが来るのである。

 

次なる驚きは、著者が子供のころの本との遭遇の感覚を、大人の読書人の感覚とは一味も二味もちがう感覚を今なお持ち続けていることへの驚きである。そして、それは歌人である著者の現在の言語感覚と陸続きになっている。

 

子供にとっての文学全集とは、単に面白いお話、物語に胸を躍らせるだけの存在ではなく、なんだかよく知らないけれど、気になる、魔法に満ちた言葉との遭遇の場でもある。いつしか失ってしまった言葉の魔法の感覚に立ち返ることの難しさ、だがそうした世界が私たちの中にあったことを本書は思い出させてくれる。

 

よくわからない、だが音そのものが心地よい未知の言葉との遭遇によって、その向こう側には本来の意味されるものから遠く離れ、言葉が喚起するイメージの無限の世界が開かれる。本の中に登場するプリンやチョコレートのようなお菓子の世界、紅茶のような飲み物の世界、『不思議の国のアリス』の主人公の名が「愛ちゃん」など別の名前に置き換えられてしまうような人名の世界、さらには本の中の本の世界。

 

本書の中で紹介されている少年少女の文学の大半は、翻訳書である。それも完全な翻訳ということはめったになく、多くは簡略化された抄訳だったりする。訳語も子供にもわかりやすいように当時使われていた近いイメージの言葉に置き換えられているが、そのことは意味の完全一致を意味しない。だから、別の翻訳者による本を読むと、はじめて読んだときの不思議な言葉は、消えてしまったり、別の言葉に入れ代わったりする。英語の音をそのまま日本語にしたような人名でさえも、同じではない。トラヴァースによる連作の主人公はメリー・ポピンズなのか、メアリー・ポピンズなのか。アンを引き取ったマシュウとマリラの姓はクスバートなのか、カスバートなのか。その翻訳による読書体験の変容に関しても、著者は丁寧にたどっている。

 

  もともとの発音にどれほど日本語の表記を近づけるかという問題は、翻訳作品に常について回る。そして、原語に近いほどよいのかと言えば、必ずしもそうでないところが難しい。その言葉の歴史とTPOに関わってくるのだ。例えば、マザー・グースの中で日本でもよく知られている「メリーさんのひつじ」、これを「メアリーさんのひつじ」にしなければ!と主張するほど私も野暮ではない。「メリーさん」だから可愛くて語呂がよいのであって、「メアリーさん」にしたら間延びした感じになってしまう。p103

 

大人に近づくにつれ原書にあたることも覚えた著者は、日本語訳の元となった原語の音や意味をたずねてゆく。そこからさらに広がる言葉の世界、文学の世界。本というものは、誰に訳されるかによってこんなにも違った輝きを放つものであることに読者は改めて気づかされるのである。

 

『少年少女のための文学全集があったころ』は二つの意味を持っている。

 

「ころ」は英語のageと同様、「時代」であり、「年齢」でもある。

 

時代が移り変わるにつれ、少年少女のための文学全集も姿を変えざるをえない。今なおそれは本屋や図書館の一角に存在するとはいえ、戦後間もないころのように、外国文学がほとんど網羅的に次から次へと翻訳されるような時代ではもはやなくなった。世界的なポリティカルコレクトネスへの志向によって、もはや『ちびくろサンボ』も読むことがかなわない時代。自宅の本棚に文学全集が与えられる少年少女の数はずっと少ないことだろう。おそらく童話や児童文学、絵本の類がこの世から消えることはないが、いつの日か、少年少女のための文学全集は消え去るのかもしれない。かつてのように豪華で趣向をこらした装丁の子供のための文学書が、今後どれだけ紙のかたちで出版されることだろうか。そのことへの寂しさが、ノスタルジックな思いがまずある。

 

そしてまた人は、大人に近づき住処を変える中で、自宅の書斎や学校の図書館など、かつて出会い愛した本や場所に別れを告げ、別の本棚を形成することになる。それでもその時代の風景は今の自分へと、自分の部屋へと、ひとつながりの道となって続いている。

 

『少年少女のための文学全集があったころ』は、言葉に関するセンス・オブ・ワンダーを取り戻させてくれる本である。だが、同時に多くの羨望を感じさせずにはおかない本でもある。それはどうしようもないことなのだ。私たちには、私たちの愛した本や愛した著者がいて、私たちは松村由利子ではないのだから。

 

けれども、異なる読書体験から引き出される洞察力に満ちた言葉は、多くの人の共感をえずにはおかないものである。たとえば読書感想文を書かせることの弊害について。

 

 子どもに読書感想文を書かせることが果たしてよいことかどうか疑問に思うのは、作品を読んだときに受けた印象を「かきまわしてはいけない」と思うからだ。

「本を読んで感じたこと、思ったことをそのまま書きましょう」なんて言われても、「そのまま」書くことは不可能である。どんなに文章表現に長けていようとも、心に抱いているものを言葉にした途端に、そのときの思いは変質する。それが言葉というものの本質である。(…)

 サン=テグジュペリ『星の王子さま』のよく知られた一節に、「かんじんなことは、目に見えない」という言葉がある。子ども時代の大切な記憶や思いを、言葉という目に見える形にすることは、わずかながらも何かを損なうことだと思う。

 本当に大きな感動を覚えたとき、それは恐らく一生、その子の心に残る。言葉にしないまま、そっと胸の奥にしまっておくことで、その感動は子どもの成長と共に熟成し、心を豊かにする。

pp142-143

 

あるいは子ども向けの本ははたして子どもにわかる世界だけを書くべきなのかという問題について。

 

  そんなことを知るにつけても、子どもに与える本を書くのは難しいと思う。物語のしっかりとした骨格は最も大切なものだが、それを彩るディテールはやはり大切である。「こんなとことを書いても子どもはわからないから」と、筋立てだけの物語にしてしまうのは少し違うだろう。不必要な装飾と異なり、きちんとした道具立ては物語の陰翳を濃くし、作品の力を強める働きをする。数年後、あるいはおとなになってから、子どものころに読んだ物語の背景や隠されたメッセージを知る―――そんな再発見も、本を読むことに伴う大きな喜びである。p40

 

これらの言葉に出会えただけでも、この本に出会えて本当によかったと思う。

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