つぶやきコミューン

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柴崎友香『ビリジアン』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

子供のころ、絵具や色鉛筆にはじめて聞くような変わった色の名前が並んでいたことを覚えているだろうか。やがてその色はいつしか臙脂色や群青色など、なじみの色の名前になるのだが、そんな風に自然に学習されることのない色もある。ビリジアンもその一つだ。

 

 持ってくるのを忘れた絵の具のことを考えていた。緑色の箱。鉛のチューブの十二色セット。緑色はビリジアンだった。その色だけが知らない言葉だった。ほかでは見たことのない言葉だった。道路と木と箱の緑色にもビリジアンが入っているのか、考えていた。p148

 

柴崎友香の小説『ビリジアン』は、小学校から大学入試に至るまでの一人の少女、山田解の断片的な記憶から構成される長編小説である。各断章は時系列にそって配置されているわけではない。つまり、時間は前後に行ったり来たりするということだ。それぞれの断章は、場所と時間が鮮やかな克明さで描写され、そこにいる人々の言葉と行動も描写される。ないのは、人物に関する説明であり、人々の感情である。一瞬の感想が書かれることもあるが、次の行には別の事柄へと文章は移行している。したがって、物語が発生する前段階で、言葉は次の出来事、もしくは場面へとすべり続ける。一種のヌーヴォーロマンのようでもあるが、異なるのは読者が言葉によって提示される出来事を、鮮やかで生き生きとした現在として体験することである。そこには、大阪の港湾地区に近い土地で生まれ育ち、大阪の街々を自らの庭のごとく動く、一人の少女の生活が存在する。あるとき、読者である私たちは、大阪で生まれ育った柴崎友香の思春期の生活を現実の風景で補完しながら、想像してみる。たとえばこんな場面。

 

 学校から、歩いて帰った。学校と家とのあいだには、川があった。川には歩道からまっすぐ渡れる橋はなくて、高速道路の高架下にへばりついたとても長い歩道橋を歩いた。川の両側には、錆びた鉄がたくさんあった。車の形を残していたり、大きな歯車を組み合わせたような形だったり、鉄骨だったり、ドラム缶だったり、ボルトだったりした。どれも、これから使われるものなのか、使い終わって捨てられているのか、区別がつかなかった。

 わたしは反対側からぞろぞろ歩いてくる別の高校の生徒たちと次々にすれ違った。向こうからこっちへ渡ってくる生徒はたくさんいるけど、こっちから向こうへと行くのはほんの数人だけだった。朝は、逆向きに。p134

 

そして、別の時間には、それは私たちを自らの同じような経験をした時代へと連れてゆくのである。だから、小説の向こう側にいるようでいて、いつしかその世界は私たち内面へと折り返さずにはおかないのである。この小説を読んでいるとき、私たちは魔法にかかったような夢見心地に置かれる。

 

私は、これがすべて柴崎友香の記憶の再現から構成されているとは思わない。人物に別の名前をつけ、動かし、描こうとするところで、細部は創造しないと同じだけの解像度を維持できなくなるのである。そこで核となる実際にあったかもしれない出来事は、周囲の世界を新たな言葉で再構成し始めるのだ。スタンダールが、『恋愛論』の中で結晶化作用について述べたように。

 

この記憶の再構成にインデックスとして、大きな役割を果たしているのが色、色の名前である。20ある章のうちで、「黄色の日」、「ピンク」、「赤」、「白い日」、「赤の赤」と5つまでは色の名前が使われている。そして、それぞれのエピソードにおいて、それらの色は一種のドミナントとして、その断章を支配しているのである。

 

冒頭の「黄色い日」もこんな風に始まる。

 

 朝は普通の曇りの日で、白い日ではあるけれど、黄色の日になるとはだれも知らなかった。テレビもなにも言っていなかった。

 小学校への通学路を、わたしは一人で歩いていた。いつも四、五人で誘い合って行っていたのに、黄色の日になぜ一人だったのか、理由はあったと思うが思い出せない。覚えていなくてもいい。どうでもいいことだったと思う。p7

 

何を白い日と呼び、何を黄色い日と呼ぶのか。その問いかけを読者が自らに対して行うときに、すでに感覚をチューニングすることで、柴崎友香の世界へと入り込み、魔法にかかっているのである。

 

数多い色の中でも、頻度からすると緑であるビリジアンよりも赤系統の色に柴崎友香はこだわっているかのように見える。こんなページもある。

 

 空が赤かった。広い空の上から下まで、見渡す限りの全部が、赤かった。夕焼けの橙や桃色じゃなかった。紅の深い赤。真紅、赤、朱、猩々、茜、クリムゾン、カーマイン、バーミリオン、レッド。知る限りの赤色の名前が、押し寄せた。でもどれなのか、わからなかった。p170

 

火の、火事の赤、血の赤。赤は衝撃的な出来事とともにあちこちで出現する。

 

色は、語られざる感情を、一種の情動を外部として表現する。赤は、時に暴力的な出来事を表現するが、殴られたり、蹴られたりというシーンでも、主人公の心は動揺することなく、一種の静謐を湛えている。

 

そのような色こそが、赤の対極にある色、ビリジアンだ。

 

『ビリジアン』は、柴崎友香という言葉の絵師が、思春期の様々な出来事を、いくつものキャンバスに描いた連作の絵のようなものである。もっぱら小説に物語(ストーリー)を求める人には、『ビリジアン』は、アンドレイ・タルコフスキーの映画のように、ときに退屈で、苦痛をともなう作品であるかもしれない。それを楽しむことができるためには、心の技術が必要である。パネルクイズのように次々に表示される20のエピソードを、入れ替えたり、つなげたりして、再構成するうちに、深い迷路へと読者は入り込んでゆく。その中には、無数の細やかな感情が、青春の疼きが、胸の痛みが、渇望が、溶け込むように描き込まれている。そして、その感情という渡し舟を通じて、読者の時間と作者の時間は、川の両側に立ったまま、つながりあうのである。

 

関連ページ:

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倉片俊輔・柴崎友香『大阪建築 みる・あるく・かたる』
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