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苫米地英人『洗脳論語』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

7月21日までの期間限定で、苫米地英人のKindle書籍が大セール中、紙の本では何十冊か著書は読んでいたが、電子書籍ははじめてなので、8冊ほど買ってみた。その中でも、特に面白いと思ったのがこの『洗脳論語』だ。

 

孔子の『論語』は、死や死後の世界を語ったりする宗教性の希薄さから、今日でもビジネス書のように読まれているが、本来は権力者のための学問としてつくられたものである。そして、中国でも日本でも、権力者に都合のよい学問として活用されてきたのだから、その道徳観の中には臣下を奴隷のように縛りつける洗脳的な内容も含まれるというのは、当然のことのように見える。しかし、具体的にそのテクニックを分析したのは本書が初めてであろう。

 

高校の漢文の時間に習う『論語』は、一見もっともな名言、正論からなっていて、特に反論の余地のないような内容のものも多い。

これは『論語』の表の顔である。しかし、無視されがちなその前後の文脈をつぶさに分析すると裏の顔が見えてくる。

 

それの鍵となるのは、「君子」という言葉である。「君子」は、一般には「立派な人」のように、毒抜きして解釈されるが、『論語』に書かれている「君子」は、実はつくられた段階では孔子を指している。さらに後世に伝わり、都合のよい学問として活用される段階では、文字通りの君主、権力者を指す言葉として読まれるべきだというのが苫米地英人の主張である。

 

そうすると、常に最も優れているのが孔子であり、さらには君主であるというロジックが一貫しているのがわかる。一切他の弟子の権威や独自性を認めまいとする点で、カルトの手口と同じだというのである。

 

君子と小人、上知と下愚を分ける論語の主張は、読者に「差別」の意識を植えつける。仏教の「慈悲」も、キリスト教の「愛」も、相手を選ばない無差別なものであるのに対し、儒教の教えは差別の徹底の上に成り立つものなのである。

 

論語は、差別主義の教えです。君子に小人が仕えることを奨励する、支配の論理で構成されています。皇帝からすると、自分への忠誠を高めるための思想というのは、願ってもないことです。皇帝にとって都合よく解釈できる思想、それが論語であり、儒教なのです。

 

こうした一般論は、言われてみれば、徳川時代の儒教の位置づけからして、それほど新しいものではない。しかし、人口に膾炙している様々な言葉の背景まで分析してみると、実に周到につくられた洗脳の教科書であることがわかるのである。

 

たとえば、

 

子曰く、質、文に勝てば即ち野なり。文、質に勝てば即ち史なり。文質彬彬として、然る後に君子なり、と。

(中身が外見を上回ると野暮になるし、外見が中身を上回ると気障になってしまう。中身と外見を器用に調和させている者が、君子にふさわしい)

 

という一節は、実は君子を最上位に置き、他の人間を二種類に分類している。そこに見られるのは次のような心理テクニックだ。

 

 本質的には、この文は「ダブルバインド」という、洗脳手法の典型です。相反する2つのメッセージを投げ掛け、どちらかを選択せざるを得ないようにしておいて、どちらを選択しても否定して身動きが取れない状態に陥らせてしまうというテクニックなのです。

 

論語の言葉は、教育や労働の現場など、日本人の日常生活の中に浸透され、それが自然な感覚になっているものも多い。「巧言令色は鮮し仁(言葉が巧みで、服装や顔つきなどを見栄えよく取り繕っている人は、仁が少ない)」という言葉などはそれ自体を取り上げるとなんの差別も含まないように見えるが、実際にはそうではない。

 

 確かに、心にもないお世辞ばかり吐く人や外見だけで中身がない人は、仁が少ないかもしれません。しかし、全ての巧言令色の人が該当するわけではないでしょう。

 

 これを現代に置き換えて考えてみてください。果たして、話が上手くて、こざっぱりとした見た目の人は、本当に仁が少ないのでしょうか。

 

 例えば大統領になるには、相手を説得するためにディベートが巧みでなければなりませんし、好印象を持ってもらうように外見にも気を使わなければなりません。悪いことばかりではないはずです。

 

 逆に、口下手で地味な外見の推奨は、まさに奴隷を作ろうとする意図が透けて見えます。皆同じような紺色や灰色のスーツを着て、不平不満を言わずに黙々と働くように仕向けていると考えるのは、穿ち過ぎでしょうか。

 

本書を通読することで、孔子という人物のリアルな顔、ダークサイドが見えてくる。そして、日本人の感性の中に知らず知らずのうちに織り込まれた道徳観や美意識の中に、支配者に都合のよいロジックが忍び込んでいることを知るのである。儒教の教えに秘められた奴隷根性の刷り込みは、数百年の歴史を通じて、何世代にもわたっておこなわれているために、無意識で気づかないものも多い。まさにその洗脳から日本人を解放するための試みとして『洗脳論語』は書かれたのである。

 

中には無理矢理論語に言いがかりをつけているのでは思う人もいるかもしれない。しかし、いったんこの本を読むともう二度と以前の無邪気な解釈には戻れない。表と裏の二つのか顔が見えてきて、その間のどの解釈をとるかは読者しだいである。

 

関連ページ:

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