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國分功一郎『民主主義を直感するために』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略



國分功一郎『民主主義を直感するために』(晶文社)は、『ドゥルーズの哲学原理』のように、均一のスタンスによって貫かれた本ではない。むしろ、多角的なアプローチにより戦略的につくられた本である。

機△よび兇裡垢弔諒絃呂蓮△気泙兇泙幣譴波表されたエッセイであり、兇慮緘召瞭鵑弔諒絃呂禄馼召紡阿靴討い襦そして、靴砲鰐閏膽腟舛亡悗錣覦曚覆觚従譴鬚瓩阿觧阿弔梁价未おさめられ、犬浪縄辺野古へのルポルタージュである。そのつど、異なる現実への、民主主義への距離がある。これらのかなり異質な言語の中で、「民主主義」への直感が立ち上がる仕掛けになっている。

タイトルの「直感」が「直観」ではないことに注意しよう。哲学的な能力の一つとしての直観は、現場に立ち会うこと、当事者であることを必要としない。それに対して、直感は生きられた時間に結びついた経験主義的な概念である。それは思考の中で概念のはざまにやってくるのではなく、直面せざるをえない状況の産物とも言える。能動的、主体的な思考ではなく、具体的な時間と場所によって強要された限りでの、受動的、体感的判断、これが直感である。

「民主主義」のような政治的直感は、何らかの理想のように、天から恩寵としてやってくるのではない。むしろ、不快な違和感、思考を強要するような現実的状況への直面からやってくるのである。
 
 我々の知るこの社会の中でそのような政治体制が運営された場合には、どのようなことが起こり、どのようなことが必要となり、どのような欠陥が特に目立ち、どのような点が蔑ろにされるのか。そうした具体的な諸要素を頭の中に集積した末に、やっと我々は、民主主義がいかなるものであるかを直感することができる。pp5-6

本書を読む中で直面するのは、かなりがさついた、できれば考えずに済ませたいような社会の様相である。言葉で「民主主義」を標榜しようとも、現実はそこから乖離し、当たり前のことが当たり前に通用しないような社会の仕組みがすでにできあがっている。そして、そのほんの小さな一角を切り崩すことのいかに困難であるかが、本書の中では繰り返し語られる。だが、そのような努力抜きには、この国の「民主主義」はどんどん劣化してゆくことだろう。

冒頭を飾る「パリのデモから」では、デモに参加した人々はただ歩いているだけ、ゴミは散らかし放題だが後から清掃軍団がやってきて、即座にきれいにされるさまが描写されるが、そこに込められたメッセージは「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」である。デモは、秩序の外部にわずかに触れるのだ。

本書を通じて、一貫して示されるのは、この外部の存在である。そして、体制はそれが中央であろうと地方であろうと、その外部の存在を否認しようとする。この国のメディアもまた、その報道の中で、この外部の存在を無意識のうちに覆い隠すことがしだいに支配的になっているのである(「いまメディアに求めるもの―――忖度との戦い」)。
 
 ではこれらの事件を引き起こしているものとは何か?それは関係者・担当者の心に抱かれた「この話題に触れるとどこかから文句を言われるのではないか」という過度の忖度に他ならない。つまり、自分たちで進んで自分たちの言論の自由を妨げようとする動きが始まっているのである。p36

外部性は、また日常に対する外部、非日常でもある。いつ日常生活の秩序が崩壊し、非日常へと移行するかを、その渦中に置かれた者が自覚することはとても難しい。亡命が必要になるのはまさにそのようなケースである(「亡命はなぜ難しいのか?」)。手塚治虫が『アドルフに告ぐ』で描いたのも、そのようなナチスの庇護を得ていると錯覚したユダヤ商人の家族の悲劇である。
 
 最終的な悲劇は起きておらず、日常生活は続いている。それにもかかわらず、それまでの生活を投げ捨てるという緊急的な行動に出なければならない。これこそが亡命の最大の困難である。p41

民主主義を直感させる違和感は、思考を促す。思考を停止させようとする日常性に抗して、現実の裂け目から垣間見られる、秩序の外部への呼びかけに応えなければならない。
 
  人がものを考えるのはどういう時でしょうか。それは何かいつもと違うことが起こった時、あるいは何か違和感を覚えた時だと思います。(…)
  ただ、自分の普段の生活を考えてみると、確かに違和感を感じているのに、それについて考えるのを避けてしまうということがありませんか?(…)
  ボンヤリとした圧力によって話すことを封じられている、そうした話題が世の中にはたくさんあります。おそらく、政治の話題はその一つです。
p49

現実に触れる中でおぼえた違和感より政治を思考すること、民主主義を思考すること、本書のねらいはここにある。そのケーススタディとして、小平市の都道328号線の問題があり、吉野川の可動堰の問題があり、さらには辺野古への米軍基地移設問題があるのだ。

しかし、政治について、何の参照物もなしに一人考えるのは、効率の悪いやり方である。人類の膨大な経験とそこから得られた英知を活用しない手はない。この意味において、本書の中の書評、とりわけ「ブックガイドーーー二〇一四年の日本を生きのびるための三〇タイトル」は、ホッブス、スピノザの古典的な著作からカール・シュミットやハンナ・アレントを経て、本書に登場する白井聡や村上稔の著作まで広くカバーした俯瞰的リストとして重要である。

山崎亮との対談「民主主義にはバグがある―――小さな参加の革命」で明らかになるのは、立法中心主義におけるバグとしての行政の独断専行的な体質であり、その軌道修正を行うための住民運動の方向性である。同時に、都内では不可能なことも地方では可能な場合があることも示唆される。
 
山崎 人口の規模が小さいところって、住民や行政、議会の関係が直接民主制に近い状態に持っていけるんですよ。だから、けっこう先進的なことができる。p135

村上稔との対談「変革の可能性としての市民政治―――吉野川と小平の住民投票運動を振り返って」では、同じ問題意識を引き継ぎつつも、成功裏に終わった徳島における特殊事情へと分け入ってゆく。
 
村上 (…)東京だと駅前で運動するという手がありますが、徳島の駅前には誰もいないんですよ(笑)。地方都市は車社会ですから、たいがいそうです。
 そこで僕らが考えたのは、橋の上に立つということでした。特に重要ポイントだったのは、かちどき橋という県庁前にある徳島市の象徴のような橋です。
p166

また、全国共通の事情も浮かび上がってくる。議員がつくる会派と首長との関係がそれである。
 
村上(…)そもそも議員というのは市長に自分の口利き案件を通したいわけです。議会のなかで市長の主張を認めるもしくは認めないぞと圧力をかけることによって、自分の口利き案件を通していく。そのためには数が必要だと、会派をつくりたがるんです。一定数の会派を組んでおけば、市長に圧力をかけられる。しかしそのためには会派が結束していないといけない。 
 議員は市全体の政策に関心がなく、自分への陳情をどう実現するかという関心しかありません。だから、会派の縛りに対して追従する。その代わりに、小さな陳情を通す。この駆け引きが会派を強化し、会派の長が首長に対して力を持つことにつながっている。
pp171-172
白井聡との対談「教員は働きたいのであって、働くフリをしたいのではない」では大学改革の問題を、教官の立場から取り上げる。歴史的に見て、大学改革は不毛な結果しかもたらさないが、法科大学院や大学院生の大幅増の方針のように悲惨な結果を生んでも誰も責任をとろうとしない、だからと言って、大学当局が有効なカウンターを打ち出せないでいるのはあまりにも情けないのではないかという共通認識が両者には存在する。
 
白井(…)現在、その惨憺たる結果が明らかになりつつあります。それがいわゆる「高学歴ワーキングプア問題」です。私は政治学の分野で研究してきましたが、教育学者の舞田敏彦さんによる統計では、法学・政治学の博士号取得者のうちの三割近くが死亡ないし進路不明となっています。政治学単独で見たらどうなるのか、想像するだけで怖いです。もちん皆死んでしまったわけではないでしょうけど、死亡の場合、ポスドクの年齢的に、死因はおそらくは自殺が圧倒的に高い率を占めるはずです。p199

大学改革で語られる「トップダウン」や「外部の目」の詐術も語られる。そこで求められるのは、全体を引っ張るリーダーではなく、既定方針をゴリ押しするルーラー(支配者)である。では、理想の大学のあり方はどのようなものであり、果たしてそれは可能であろうか?

ラストを飾る「辺野古を直感するために」は、2015年3月の沖縄での著者の滞在記である。そこでも「直感」という言葉が繰り返し用いられる。
 
 政治的な問題を考える時、最初にある素直な直感はとても大切である。人は何ごとについても、直感を得るわけではない。したがって、たとえ事情に通じていなくても、「これは何かおかしい」という感覚が得られたならば、それだけで貴重である。そこからは「なぜこうなっているのか?」という問いかけが生じ得るからだ。その意味で、いかなる直感も大切にされなければならない。直感を得られたということそれ自体が、関心の芽生えを意味している。
 いま辺野古で起こっていることについて、私は「これはおかしい」と直感していた。沖縄を訪れる前、僅かではあったが現地の事情を自分で調べてみて、その直感は強まっていった。そして現地に赴き、その直感は非常に強固なものとなった。

沖縄には青い海、青い空、白い砂浜がある。そして人々がいる。海上保安庁の巡視艇もある。人々と海上保安庁や機動隊との衝突の現場もある。その現場に身を置きながら、哲学者國分功一郎は何を直感したのか?

読者すべてが著者と同じ問題を共有することはないだろう。しかし、この時代を生きる中で、同じような問題、同じような状況、同じような違和感に早晩直面することになるだろう。本書は、その時、一種の七つ道具として、思考停止への圧力に抗して、自らの頭で考えるのに大いに役立つことだろう。

関連ページ:
國分功一郎『近代政治哲学』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(1) (2)
國分功一郎『哲学の先生と話をしよう』
國分功一郎『来るべき民主主義』
國分功一郎・古市憲寿『社会の抜け道』(1) (2)
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(1) (2)
 
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