つぶやきコミューン

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平野啓一郎『マチネの終わりに』
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『マチネの終わりに』(毎日新聞出版)は、毎日新聞に連載された平野啓一郎の小説の単行本化である。

出たばかりの小説をどのように紹介すべきか。これは永遠の難題である。というのも、ネタバレと考えるラインは人によって異なるからだ。あらすじの紹介さえもネタバレと考える人もいれば、最後のエンディングさえ隠せばネタバレでないと考える人もいる。おそらくは同じ理由で、ツイッターでここのレビューを紹介しても、なるべく余計な先入観なしに読者に物語を堪能してほしい著者によって、そのツイートがRTされる確率は、小説の場合、ノンフィクションよりもはるかに低いのである。

そうした困難の中で、可能なやり方の一つは抽象化だが、それでは読者にまるで面白さが伝わらない。ひたすら賛辞だけを連ねる感情表現に頼るやり方も同様だ。

許される数少ない方法は、登場人物の紹介ということだろう。しかし、登場人物の性格は、物語の一部であるエピソードによってはじめて規定されるものである。エピソード抜きにそこから性格を結果的に抽出してしまうことはまた読者に対し別の先入観を与えてしまうことにならないだろうか。

そして、この物語『マチネの終わりに』の著者は、分人主義をその著作で一貫して主題としている平野啓一郎である。分人主義とは、わかりやすくいえば、ある人間がAという人間を前にした場合と、Bという人間を前にした場合では、あるいはAという立場に置かれた場合と、Bという立場に置かれた場合では異なる人間であるという考え方である。そして、その主題はこの作品でも、貫かれている。帯文に「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」とあるように、主人公の蒔野聡史が小峰洋子と一緒にいる場合と、別の女性と一緒にいる場合、小峰洋子が蒔野聡史と一緒にいる場合と別の男性と一緒にいる場合との対比が大きなテーマとなっているからだ。

物語の主人公は、クラシックギターリストの蒔野聡史と国際派ジャーナリストの小峰洋子であることは確かである。というのも、冒頭の「序」にはこうあるからだ。
 
 ここにあるのは、蒔野聡史と小峰洋子のという二人の人間の物語である。p7

しかし、この「序」そのものが企みに満ちた仕掛けがなされている。蒔野聡史も小峰洋子も実在の人物を守るための、仮の名前といことになってしまうのだ。しかし、この「序」それ自体が作家平野啓一郎の本音の声なのか、それとも物語の語り手にすぎない「私」に名を借りたフィクションなのかもわからないので、その真偽のほどは宙に置かれてしまうのである。それにたとえ仮名にしたところで、このように天才の名前をほしいままにしたギタリストと国際派女性ジャーナリストとの間の恋という設定では、たちまちのうちにモデルが発覚してしまう。すると名前だけでなく、それぞれの職業や性別までずらしてあるということなのだろうか。それにともなう周囲の人間のステータスまでもが、調整の産物であるということなのか。
 
 彼らにはそれぞれにモデルがいるが、差し障りがあるので、名前を始めとして組織名や出来事の日付など、設定は変更してある。
 もし事実に忠実であるなら、幾つかの場面では、私自身も登場しなければならなかった。しかし、そういう人間は、この小説の中ではいなかったことになっている。
 彼らの生を暴露することが目的ではない。物語があまねく事実でないことが、読者の興を殺ぐという可能性はあるだろう。しかし、人間には、虚構のお陰で書かずに済ませられる秘密がある一方で、虚構をまとわせることでしか書けない秘密もある。私は現実の二人を守りつつ、その感情生活については、むしろ架空の人物として、憚りなく筆を進めたかった。
p7

あるいは、ここに出てくる薪野聡史のモデルが平野啓一郎本人であるという仮説も可能だろう。というのも、平野も若くして『日蝕』で芥川賞を受賞した当時は「天才」だの「三島由紀夫の再来」だのと一世を風靡したからである。そして、モデルであった平野の妻との恋愛エピソードをそのままに、あるいは反転させて、描いたものという仮設だって考えうるのである。

そして冒頭にこのような「序」を置いたことの理由は、そうした無限の解釈の可能性の迷路の中へ、真偽の彼岸へと、物語のステータスを置くことであったのだろう。

しかし、物語の流れからすれば、蒔野聡史が若くして「天才」の名をほしいままにしたクラシックギターリストであり、小峰洋子がイラクに取材する国際派ジャーナリストであることには、単なる一設定を超えた物語の必然が存在する。たとえばコンサートシーンにおける芸術的世界の広がりや、小峰洋子を襲った自爆テロのリアリティなどこのような設定でなければ描けないシーンがあり、たとえ物語の祖型が自他の人生にあったとしても、フィクションの肉づけが物語の流れを左右し、別の世界を生んでゆくのである。

あるいは別の理由も考えられる。『マチネの終りに』の主人公が、たとえば市井の人にすぎない『空白を満たしなさい』や『決壊』の主人公たちとは異なり、余りに華やかな世界の人物であり、アメリカやヨーロッパの映画的設定であるがため、その嘘くささを払しょくするために、実在モデル説によるカムフラージュをここに置いたと考えることだってできるだろう。実際、基本的に時系列の構成で語られる『マチネの終りに』には、たとえば『君の名は』のような、人々の心にアピールする通俗的ラブストーリーの世界と本質的に区別するものは何もないのである。

1999年のデビュー以降17年間、平野啓一郎が人気を保ち続けているのは、実は「純文学」と通俗性との間の絶妙なバランスを保ち続けているからなのである。というよりも、「純文学」という言葉自体が日本における制度的虚構でしかなく、ヨーロッパやアメリカのメインストリームの文学はそもそも、平野が範を置く19世紀のフランスの小説からしてそのようなものであったのだ。

しかし、『マチネの終わりに』は、「トリスタンとイズー」や「アベラールとエロイーズ」のような、あるいはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のような運命的な恋とふりかかる障害の数々、偶然のいたずらに翻弄される二人という恋物語の系譜に属している。ただ異なるのは、イラク戦争と東日本大震災の傷跡の中で書かれたこと、そして『マチネの終りに』が悲劇ではなく、最後に明るい一条の光がさす「人間喜劇」であることであり、それを堪能し涙を流すためには、最後の一行まで読み進めなければならないのである。

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