つぶやきコミューン

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安田寛『バイエルの謎』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.1.1



かつてこの国においてはピアノの練習と言えばバイエルから始まると決まっていた。赤いバイエルと黄色いバイエル。その後ブルグミュラーをはさみながら、チェルニーへと移行しながら、ソナチネアルバム、ソナタアルバムを併用する。さらにメカニカルな指のトレーニングとしてハノンを併用すれば、一人前のピアニストのできあがりである。もちろん、発表会用に様々な作曲家の有名どころの曲をはさみレパートリーとして仕上げるが、大勢においてピアノの教育はそのように進んできた。

その最初のステップである、バイエルに疑いの目が向け始められたのは1990年代のことである。
 
 バイエルは日本で長く愛用されてきた子どものためのピアノ教則本である。長く使い込まれて、手入れがよく行き届き、日本人にすっかりなじんだピアノ教則本である。バイエルの百六番までの番号の一つひとつは幼い子供の成長記録そのものであった。だから、日本でピアノの初心者が使う教則本といえば、バイエルに決まっていた。風向きが変わってきたのは、平成二年(一九九〇)前後から。バイエルをいまだに使っているのは日本だけ、と指摘されてからのことである。それまで安心して使っていたバイエルがとたんに疑わしくなってきた。偽物をつかまされたような気がして、信頼が揺らぎはじめた。pp13-14

はたして、そこで言われるように、バイエルは二流、三流どころの作曲家であるのか、世界の中で日本だけで突出して使われるようなガラパゴスなピアノ教則本なのだろうか。

この謎に果敢に挑み、見事解き明かしたのが安田寛『バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本(新潮文庫)である。

調べてみると、バイエルの伝記は杳としてわからない。子供向けの漫画では完全に人生が創作されていたり、他方でバイエルは架空の人物であり、実際は複数の作曲家からなるとか、チェルニーと同一人物であるなど珍説奇説にこと欠かない。だが、それらを反証するにも資料そのものが見たらないのだ。

そこで、著者はまず明治13年まで遡る日本におけるバイエル輸入の歴史から始める。さらに、ウィーンからマインツ、クヴェアフルト、ニューヨークなどアメリカやヨーロッパ各地に飛び、その初版まで遡ろうとする。そうして、どうやら1850年ころに出されたものが初版であるとわかるところまでこぎつける。そしてバイエルそのものの構成とそれが日本で遂げた大いなる拡張の意義について考察し、しだいのその正体が見えてくる。それでも、バイエルという人の伝記は、一次資料が見つからず、まるでつかみどころがないのである。
 
 バイエル初版を復元し、幸運にも本物も手に入れた。戦後花開いたバイエル文化の由来も分かった。バイエル・ピアノ教則本の不思議な構造も明らかにできた。しかしそれなのにバイエル自身についてはあいかわらず何も分からない。あいかわらず音楽辞典にある数行の記事がすべてである。他には何も残っていない。この惨憺たる現状をこの四年間で繰り返し認識しただけだった。バイエル自身は依然として霧の彼方だった。バイエルは自分を語ることを頑なに拒み続けているかのようだった。p192

しかし、そこから急転直下事態は解決へと向かう。一件のインターネットの記事、さらにその記事を頼りに再び訪れたドイツの町、マインツの市立図書館で粘り強くバイエルの名前を探すことで一気に真実が開けてくるのである。

バイエルはいつどこで生まれ、どのように育ったのか、どこで音楽教育を受けたのか、どのような職歴を持ち、どのような家庭をつくったのか、そしていつどこで死んだのか―そこで明らかになった真実は、教会のオルガンの響きとの関わりなど、事前の見立てを大きく書き替えるものではないだろう。ただ、その真実が明らかになる過程、何万キロという旅路と膨大な労力は、本物の真実が明らかになるのはこのようなかたちなのだと信じさせるだけの重みがある。

インターネットのワンクリックで物事のついての情報が検索できる前には、誰かの途方もない努力がある。そのことを当たり前だと思わないことだ。『バイエルの謎』は、日本と世界の知られざる音楽史の謎を明るみにしてくれるクラシックファンにはたまらない一冊だが、何よりも埋もれてしまった歴史的真実を明らかにするプロセスを堪能することのできる極上のノンフィクションミステリーなのである。

 
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