つぶやきコミューン

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森山高至『非常識な建築業界 「どや」建築という病』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

「どや建築」とは何か?周囲の歴史性や景観との調和を顧みず、建築家のオリジナリティ幻想のままに建てられた「イタイ」設計デザインの建築である。このような建築は、無理な建築構造を志向するがゆえに、居住性や耐久性をも犠牲にしていることが多い。したがって、完成後もさまざまな問題が時間とともに生じる。要するに、使い勝手が悪く、時には地獄のような空間になってしまい、さらに本来壊れるべきでない時期から、外観や内装の破損が生じ始める。しかし、真の問題は、こうした問題建築を手掛けた建築家が、様々な問題発覚の後にも、自然に淘汰されることもなく、そのまま生きのびてしまう建築界の体質そのものにある。

このような建築業界の体質・構造にメスを入れたのが、建築エコノミスト森山高至『非常識な建築業界 「どや建築」という病』(光文社新書)である。新国立競技場の白紙撤回問題こそは、まさに「どや建築」の問題の全方位的な表面化であったと言えるだろう。そこで生じたのは、単にコストや工事の期間の範囲内で建物を建てることの物理的不可能性ではない。現実に手がけている工事の全体像を誰一人完全に把握することなしに、ネックとなっている様々な業界の利権全部入りの初期設定が覆されることもなく、無理な工事が進められようとしたガバナンスの不在そのものにある。

そして、ずっと小さなスケールではあるが、ほぼ同じようなことが日本の津々浦々で起こりつつある。第一には、建築業界によるデザイン至上主義があるが、建築家の多くは、デザイン分野の訓練を受けたことがない、理数系のオタクであり、審美的なレベルが高くない。つまり素晴らしいと信じて、醜い建築を量産してしまう危険性があるということである。オリジナリティを追求しているはずが、同じような黒か白かグレーの箱しか作れない発想の貧困もある。また、周囲の自然的・文化的環境との調和で、建物をつくるという発想が希薄で(それを謳ったとしても勘違いになりがちだ)、建築物単体の意匠を考えてしまう傾向がある。そうしてできあがるのは、全体としては何の統一性もない、てんでばらばらの自己主張を行う醜い街並み、都市景観である。それを業界全体が許容してきた点に問題の半分はあったと言えるだろう。

他方ではもう一つの問題が生じつつある。それは高齢化にともない、建築現場を支えてきた職人も、全体をまとめる現場監督の数も少なくなりつつある点である。それによって、それまで生じえなかったような問題が生じつつある。さらに、労働者派遣法の改正とあいまって、従来一心同体となって日本の建築を支えてきた元請け、下請け相互の信頼関係が崩壊しつつある。要するに、中の人たちがサラリーマン化して、自社や自分の部署のリスク回避、責任逃れを図る方向へ動き始めたということである。これを端的に表したのが、横浜の傾斜マンションの問題である。

 

 

短期的な利益を追求するばかりで長期的な人材教育をおろそかにし、人材の流動化という流行りの労働思想に乗ってしまった結果、多くの現場では工期に追われ、工事費用にも余裕がなくなり、建設工事のクオリティは目に見えて下がっています。横浜のマンション傾斜問題も、まさにそうした状態が行き着いた先で、起こるべくして起こった事件だったのです。p190


醜い、圧迫感を与える、周囲とマッチしないといった外観的な「どや」問題以上に深刻なのは、住みにくい、使いにくい、クソ暑いといった利用者に不利益をもたらす内部空間的な「どや」問題であり、さらに雨漏りがする、壁がはがれる、傾き始める、要するに建物として完全な形のまま本来の寿命を保てないという構造的な「どや」問題である。本書は、そうした諸問題の根源がどこにあるか考察するのに多くの手がかりを与えてくれる。

建築におけるデザインの価値を否定するわけではない。調和を乱すもの、醜いものも、オリジナルであれば貴い、えらいという発想が時代遅れなのだ。

「どや」建築とは、要するに幼稚な美意識の建築である。少なくとも公的な施設においては、伝統的な建築の長所、価値というものをすべて押さえた上で、周囲の自然環境や文化的歴史的環境との調和を目指した、住みやすい建築、使いやすい施設であることを必須とする、成熟した建築の美意識と倫理が確立されなければならない。そのためには、建築の美醜、アメニティや使い勝手のよさを、密室化した業界の外から評価するシステムも必要であるだろう。さらに、建築教育そのものが、一方においては内外の建築の歴史を知悉した教養や美的なアートの素養の訓練と、他方においては現場施工の技術的な常識を身につけることまで含めたホーリスティックな建築志向を持ったものへと生まれ変わることが求められる時期に来ているのではなかろうか。

書評 | 14:18 | comments(1) | - | - |
コメント
from: 森山   2016/03/05 10:08 AM
ご感想ありがとうございます!!
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