つぶやきコミューン

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和合亮一『詩の寺子屋』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略                                   ver.1.01



詩の作り方をどのように教えればよいだろうか?

明治以降の日本の詩の歴史を、代表作を押さえながら紹介しても、あるいは現代詩のアンソロジーの中から重要な詩人の作品をピックアップし解説していったとしても、そこで学ばれるのは詩の鑑賞方法であって、詩の作り方そのものではない。

詩は個人の感情や感覚の産物であり、自らの意志で選んだ先人の作品を吸収するとき、詩を作る感性は自然に養われるが、他者が整理した枠組みの中で知的・体系的に教えたところで、それは詩の生成につながることはないだろう。吉本隆明の言う自己表出的な言語の世界を、指示表出的な言語によって語り尽くすには、本質的な困難がつきまとうのである。

気に入った作品を読んで読んで読みまくるうちにいつの間にか詩が書けるようになっているという経験主義的なやり方以外に、どのようにして私たちは詩の作り方を学ぶことができるのか。この困難な問いに答えたのが和合亮一『詩の寺子屋』(岩波ジュニア新書)である。

和合亮一は、一般には東日本大震災の際にツイッターでも福島発の詩を発信し、それまで詩に無縁だった人々にも詩が本来持っているポテンシャルを知らしめ、多くの人に感動を与えた詩人として知られるが、同時に高校の国語教師でもある。被災地で生活するだけでなく、教師として教壇に立ち、生徒たちと向かい合う中で、この国の言葉を教えるプロフェショナルでもあるのだ。

そして、これら二つの能力の交点において、この『詩の寺子屋』は書かれているのである。

 私は、いくつかの詩作教室で教えてきました。二〇年ぐらい教えてきて、たくさんの詩人たちと時を分かちあってきました。今もその教え子たちと、肩を並べるようにして、勉強会をときどき開いています。また、友だちのようになって、心の絆をもちつづけています。
 いつしか自分の詩をつくる活動・教える活動・勉強会活動などをまとめて「詩の寺子屋」と呼びようになりました。
(はじめに、p鵝

詩の言葉は、何もないところから生まれるのではない。何らかの感情や感覚の産物である。

感情や感覚を触発する何かが目の前になくてはならない。

何かの刺激があれば、そこに感情や感覚が生まれ、それが断片的な言葉を生み出す。

和合亮一が、ここで選んだのは、ワークシートによる作業形式である。

たとえば、自分自身への手紙を書いてみること。次には、それに対する返事を書いてみること。

たとえば、詩を読むこと。と言っても、目で追うだけでなく、朗読し、その音に、リズムに耳を澄ませてみること。響きのよい言葉を集めてみること、七音の言葉を集めてみること。

たとえば、空を見上げ、その色を、温度を、音を、においを、雲や鳥を想像し書きとめてみること。

ある言葉、たとえば自分を、別の言葉で言い表してみること。自己紹介の文章を考えてみること。

すでに存在する詩の続編を書きたすこと。自分が作った詩に別の人に続けてもらうこと。別の人の詩を続ける中で、集団で創作してみること。

このようにして、和合亮一は、言葉が生まれる無数のチャンスを用意する。次々に言葉は生まれ、それがまた別の言葉を生み出し、いつしか集まって一篇の詩になる。

ワークシートを一つ一つ消化する中で、読者は言葉が自分のうちに立ち上がることを感じ取ることだろう。そして一歩一歩詩の創造の世界へと近づいてゆく。

必要なのは、こうした言葉のアウトプットを抑制しようとする分別の心や大人の羞恥心をものともしない素直な心、素の心である。

そして、とりあえず思いついた言葉をワークシートの上に書きつらねてゆく行動力である。

特定のどの詩人の影響下というのではなく、自前の言語感覚によって、詩の創造の世界へと気軽に足を踏み入れるためのパスポートが『詩の寺子屋』の中には秘められているのである。

詩を作ることは、単なる感情や感覚の表出ではなく、自分を創造することである。

 これまでに詩を書いてきた経験から、私は、書きあがった作品に現在の私が写し取られたとき、はじめて、これまでに気づいたことのない新しい私に気づくことがとても多い、という気がします。
 もっと言えば、詩は「書かれた私」の集まりであり、それが現在の「書いた私」を導いてくれることが多くあります。「書かれた私」が「書いた私」を、育ててくれるのです。つまり言葉にならないものに立ち向かい、迷いつづけることは、何よりも自分のために何かをつくっていくことにほかなりません。

(はじめに、)

「書いて書いて、自分を作っていく」ーーー和合が引用している井上光晴の言葉のように、いったん詩の作り方を覚え、その大地に踏み出した後は、ひたすら書いて書いて書きまくるなかで自分をつくってゆくしかないのである。

『詩の寺子屋』
は単なる詩作の教室でなく、詩を通じて自分を、自分の中の言葉の宇宙を発見するための教室なのだ。

関連ページ:
和合亮一『詩の礫 起承転転』

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