つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 坂口恭平
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略


彼自身による坂口恭平

建てない建築家、アーチスト、詩人、シンガーソングライター、小説家、エッセイスト、思想家、新政府内閣総理大臣…坂口恭平とはいったい何者か?

「ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 坂口恭平」は、そんな多面的な坂口恭平の複数のレイヤーをクローズアップさせる好企画である。それは、坂口恭平を感じさせる一次情報のコンテンツと、坂口恭平を理解させようとする二次情報によるコンテンツによって構成されている。すべての記事を取り上げると収拾がつかないことになるので、ここでは坂口恭平を感じさせるコンテンツ中心に語ろうと思う。そこから浮かび上がるのは、彼自身による坂口恭平である。

坂口恭平の文章を読むことができるのは、冒頭の「駆け込み訴え」だけだ。ここで坂口恭平は、自分は死なないために、生き続けるために書いている、描いている、そして歌っているのだと語る。

わたしはとにかく自分が死なないように、つまり自らで自分を殺さないように、書いている。p8

坂口恭平のすべての活動は自ら生きのびるための、そして他人を生きのびさせるための試行錯誤である。

どうにかいつかわたしは自分に自分のことがうまく伝達できるように、わたしのなかのいろいろな自分に対して、それぞれの言語にうまく変換できるような、機械をつくりだしたいと思っているのだが、なかなか言葉ではうまくいかない。そういうとき、わたしはギターを手に取り、ぽろんと弾きながら、思い浮かぶ言葉で、歌ってみる。p10

書くのに行き詰まったときに歌は出てくるが、最初に歌詞があるのではない。メロディーとともに歌詞は出てきて、それは詩になる。

その一続きの詩の完成形を見ることができるのが、音楽集/詩集『ルリビタキ』だ。

そしてダウンロードすれば、それを音楽のアルバムとして聞くことができる。これまでの坂口恭平のアルバムに比べれば、おそろしく平明で、ポップな内容の歌詞だ。しかし、掌にすくった山あいのせせらぎのように、自然に心にしみこまむ不思議な言葉の素朴な魅力がそこにある。涙がこぼれる。

今年、歌で泣いたのは二度、ちあきなおみのCDを聴いた時と、坂口恭平の歌を聴いた時。(前野健太「西港へ」p43)

七尾旅人も、中納良恵も、坂口恭平の歌の世界を、それぞれにミュージシャンとして語っているけれど、シンガーソングライターの前野健太は坂口の歌に共鳴する心の震えをありのままに伝えている。それは彼が坂口恭平の生まれたての歌を送りつけられ保存する役割を強いられているからかもしれない。

坂口恭平の言葉をライブ感覚で味わうことができるのは、文学者石牟礼道子と建築家藤村龍至の二つの対談を通じてである。

石牟礼との対談「苦しみの淵に降り立つ音」でも、石牟礼の言葉に共鳴し始めるやいきなり『あやとりの記』の中の「天の祭ぞう」を坂口恭平は歌いだす。

 こうやって朗読すると、音がどんどん入ってくる。僕は本が読めないなと思っていたんですが、朗読すればいいのかと気づきました。p15

石牟礼との初対面でも、共鳴のきっかけは歌なのである。

それまで僕にとって道子さんは文学者だという意識が強かったので、会ってみたら全然違ったというか、歌うたいだと思ったらすごく気が楽になりました。p27

こうして浮かび上がる坂口恭平像は、歌うたい、吟遊詩人の肖像である。石牟礼もこう語っている。

あなたの朗読は、いままで聴いた朗読と違って、歌の一種ですね。面白いです。p16

しかし、建築家藤村龍至との対談「書斎とまちの往還による建築−−実現すベきユートピア設計の可能性」では、また別の坂口恭平が顔をのぞかせる。それは、書斎派建築家としての坂口恭平である。

坂口 だけど、おれは現場派になりたいっていうコンプレックスもあったんだよね。だから現場派のような振る舞いをすることもできた。
藤村 最初は坂口くんは現場派だっていうイメージがあったけれども、実は書斎派だったっていうことがわかってきました。だんだんとそれが表に出てくるようになっただけというか。
p148

そして「ドローイング『アフリカの印象』−−−レーモン・ルーセル『アフリカの印象』のための挿絵」では、かつて描かれたドローイングの一部が公開されている。詩の言葉は室生犀星の「三月」のように歌を喚起するが、小説の言葉はイメージの無数の連鎖を喚起するのだ。

坂口恭平にはフーという配偶者、アオという長女、ゲンという長男がいる。その家族の肖像を、演出を加えながらも、作品の中で描き、ツイッターでも語り続けている。そして歌の中でも歌手として、作者として登場することもある。最もプライベートな的な部分がパブリックになっている比類のない風通しのよさが、坂口家には存在する。

写真家であり冒険家でもある石川直樹によって、消え去る前のゼロセンターで撮られた一連の美しい家族の肖像は、明るさと開放性とノスタルジアをたたえた貴重な記録である。

民俗学者の宮本常一は「記録されたものしか、記憶にとどめられない」と言っている。今はないゼロセンターとあの日の坂口家を記録できて、本当によかったなと思う。頻繁に会わなくても、なぜだか忘れることのない、忘れられないともだち、それがぼくにとっての坂口恭平である。(石川直樹「坂口家」p102)

坂口恭平はたった一人しかいないにもかかわらず、無数の坂口恭平がいるかのように、人々は語る。しかし、坂口恭平は多重人格者ではない。躁状態と鬱状態でさえも、一つの曲面の表と裏にすぎない。一つの坂口恭平があるだけであり、日々刻々変化し続けるその欲求・衝動を様々な身体の部分の言語へと翻訳するとき、別の表現が生まれるだけなのだ。

坂口恭平とは何かという時、いちばん便利な言葉は作家であるだろう。

坂口恭平においては、作家という言葉は三重の意味に解釈されねばならない。

一つはものを作る人。詩をつくり、歌をつくり、小説をつくり、アートをつくる人としの作家である。

もう一つは、家を作る人、人の住みか、物理的空間をつくる人としての作家である。

そうしてもう一つは、家族を作る人である。それは坂口家のうちにとどまるわけではない。ゼロセンターの住民、新政府国民すべてが新しい家族である。

 ユートピアというと、みんなトマス・モアのユートピアのことばっかり考えるんだけど、吉本隆明は「世界のなかには、社会と家族という概念がなぜかその矛盾に違和感を覚えずに共存している。それは逆立だ」といっていて、そもそも社会と家族という概念が共存しているのに、なぜ人はユートピア、つまり社会についてしか考えないのかなと思った。いいかえれば、どこにもない場所をつくろうとするのに、なぜどこにもない家族は存在しないのか?p150

どこにもない家族を、坂口恭平はユートピアにならって、「ウィコゲニア」と呼ぶ。それもまた建築思想の延長にある。

坂口:たとえば「新政府いのっちの電話」はウィコゲニア的建築設計といえると思う。おれのところには死にたいと思っている人たちからいつでも電話がかかってくるわけで、いわゆる拡張家族に近いけど、あくまで声だけの関係としてそれを実現してるんだよね。
藤村;ネットワーク的に家族を拡張しつつ、限定的なところがあるわけですね。
坂口:そう。限定的に一時的なユートピアを実現するということを、家族という空間としてやっていて、それこそがウィコゲニアなんじゃないかと。
 つまり、実は新政府は新家族と同じなんじゃないかと思う。

pp150-151

多数多様体である作家坂口恭平にはどこが正面でどこが中心ということがない。今もものすごい速度で活動を続け、広がり続けている宇宙のようなものである。「ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集 坂口恭平」は、その中に潜り込むための無数の入り口を私たちのために準備してくれる本である。

関連ページ:
坂口恭平『家族の哲学』
坂口恭平『幸福な絶望』
 PART2(地名索引)
 PART3(人名事典)
 PART4(書名事典)
 PART5(音楽・映画事典)
坂口恭平『ズームイン、服!』
坂口恭平『隅田川のエジソン』
坂口恭平『現実脱出論』
坂口恭平『坂口恭平 躁鬱日記』
坂口恭平『徘徊タクシー』
坂口恭平『坂口恭平のぼうけん 1』
坂口恭平『TOKYO一坪遺産』
坂口恭平『モバイルハウス 三万円で家をつくる』
坂口恭平『幻年時代』
坂口恭平『思考都市』


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