つぶやきコミューン

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ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略



『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』(集英社新書)は、かつてイタリアはフィレンチェで画家を目指した漫画家ヤマザキマリによるルネサンス美術論である。「はじめに」の中で著者はこう書いている。

 候補者は数えきれないほどいますが、実際に現地で作品をみて、心の底から好きになった人たちを優先して選ぶことにしました。ルネサンス美術で当然のように取り上げられる巨匠も、あまり日本では知られていない個性派画家も同列に置き、いわば、私なりの「偏愛」に基づいて選択したことを、先にお断りしておきます。
 その選択基準とは何か?
  ひとことで言えば、なんらかの意味で「変人」だったことです。私にとっての「変人」とは、既成概念にとらわれず、型にはまることもなく、自在に自らの感性と技巧を操る、果てしなく自由な思想を持った人々を指しています。pp13-14

自分の好みの「変人」のコレクションという点では、これまでに出た『男性論 ECCE HOMO』に通じるものがあるが、それぞれの作品世界の中に一歩踏み込み、その魅力を語りつくしているという点で、一味も二味も違うディープな絵画論になっている。ボッティチェリや、ダ・ヴィンチのようなビッグネームだけでなく、アントネル・ダ・メッシーナやグリューネヴァルトといった知られざる大家の作品も紹介されていて、大通りだけでなくあやしい裏道までに分け入ったルネサンス美術への格好の入門書となっているのである。

 漫画家になる前、私は売れない画家でした。17歳のときに美術教育の本場であるイタリアのフィレンチェに単身留学し、必死で一人前の画家となるための修業を始めました。数えきれないほど模写をし、絵画の修復をしながら、少しずつ自分の作品も発表していきました。ルネサンスの歴史も、ここで学びました。
 しかし出産と同時に、生まれた子の父親である恋人と別離することになったのを機に、生活費を稼ぐことを優先し、私は漫画を描き始めました。イタリア人の夫と結婚して新しい家族ができ、世界中で転居を繰り返すうちに、画家時代の絵はすべて散逸してしまいました。

p11

本書を特徴づけるのも、こうした著者の経歴に由来する二重の視点である。一つは留学して本格的に絵画の勉強をしたかつての画学生としての視点、そしてもう一つの視点は古今のヨーロッパを舞台とした漫画を発表し続けている現役の漫画家としての視点である。

通常とは異なる二重の視点の取り方により、これまで語られなかったルネサンス美術の本質や魅力も鮮やかに浮かび上がってくるのである。

冒頭を飾るフィリッポ・リッピはボッティチェリの先駆けとなった聖職者の画家だが、著者はフィリッポ・リッピを「ルネサンス絵画の幕開けを飾るにふさわしい人」と呼ぶ。

 聖母マリア(マドンナ)の絵を描かせると、彼はとてつもなく上手でした。ただしそのモデルは自分の愛する女性で、その人以外を描くと、言っては悪いけれど、まるで下手くそ。
 そう、彼は「自分の愛する人」しか綺麗に描けないという、当時の画家としては例外的な存在ーーつまり「変人」であったのです。
p28

漫画家を志す人が最初に描くのは、主人公となる自分の好みの女性や男性だったりするのだが、そしてそれ以外の人や物をどれだけ同じような情熱を持って熟練するまで描けるかどうかでプロになれる人とそうでない単なる愛好者が自然に決まるものだが、こんなオタクマインドの人間がルネサンス絵画を先導したというのはいかにも人間的である。そして、宗教画の下に込められたそんな下心こそが、ルネサンスの原動力であるとヤマザキマリは言うのである。

 東京の浅草に、人気スターのブロマイドを売る「マルベル堂」というお店がありますが、中世の厳しい規範意識がまだ残っている時代に、フィリッポ・リッピは聖母子像を、「となりのお姉さん」のブロマイドのようなものとして描いたわけです。
 恋する「お坊さん」を描いた『聖母子と二天使』には、本来の宗教心とはかけはなれた猥雑な気持ちが混じっています。けれども、そうした猥雑さこそが、ルネサンスという「人間復興」の機運を駆り立てていく原動力でした。
pp31-32

フィリッポ・リッピはそれまでの宗教画のお約束であった「イコン=記号」という制約から外れて自由に絵を描くことができた最初の人である。そしてその自由な精神は、弟子のサンドロ・ボッティチェリへと受け継がれる。

ボッティチェリの特徴を、漫画家ヤマザキマリは次のようにとらえる。

 ところで、ボッティチェリの絵には大きな特徴があります。それは「輪郭を描く」ということです。ちょうど漫画家が最後にペン入れをするように、完成した絵に輪郭線が残っているのです。どんな画家も、油絵の下絵を描く際には薄くラフとして輪郭線を描きますが、最終的には消してしまいます。画材によって質感や立体感を出し、輪郭線があるような気配は見せません。ところがボッティチェリは、仕上がった絵にも輪郭線を残しました。p43

輪郭線があるがゆえにボッティチェリの絵は、二次元的でありながら背景からくっきり浮き上がってみえる。この漫画的表現ゆえに、彼の絵は日本人に人気があるのではないか。さらにボッティチェリを「いまにも泣きそうな憂い顔の乙女を描くのがうまかった人」、少女漫画や竹久夢二に通じる特徴を持つと分析するのである。

そのボッティチェリのアシスタントをしながら腕を磨いたのが、フィリッポ・リッピの息子のフィリピーノ・リッピである。フィリピ―ノ・リッピにおいて、イタリアルネサンスの少女漫画は完成されたと言っても過言ではない。ボッティチェリに欠けているものをリッピは絵画の歴史に与えた。それは何だろうか?

   フィリッポ・リッピから、ボッティチェリを経て、フィリピ―ノ・リッピに至る三代の絵の共通点は、「少女漫画」風といってもいいほどロマンチックなことです。その特徴が最も顕著なのが、フィリピーノ・リッピの絵だといえるでしょう。なにしろ、フィリピ―ノは男の子の肖像を描くのがものすごく上手でした。
 しかもフィリピーノは、まるでBL(ボーイズ・ラブ)漫画に出てくるような、女性の目からみて素敵だと思える男の子の絵ばかりを描いています。
pp57-58

西洋美術の技術と歴史に通じた碩学と現役の漫画家の二重の視点に加わるのは、絵画に隠れたメッセージを読み取るための女性の視点である。というのも、ここで語られる画家やその他の人物はすべて男性であ り、最大の参考文献として著者が依拠しているヴァザーリの『美術家伝』も男性の手のなるものである。男性によって語られる美術の歴史は、時に芸術家のエキセントリックな言動を史実として取り上げることはあっても、おおむね美術史の建前を、観念的な美辞麗句で語ることが主流となっている。しかし、女性としてヤマザキマリが読み取ろうとするのは、絵画の潜在的な欲望であり、同時にその絵画が表現する男性としての個性である。

ラファエルダ・ヴィンチミケランジェロというルネサンスの三巨頭は、男性としてどう映るのか?

三人の中から一人配偶者を選ぶとしたら迷わず「ラファエロ!」と答えると著者は言う。その人の描く女性像にその画家の人格が現れ、ラファエロは三人の中で女性美を最も重視した画家であるからというのがその理由である。

 対して、レオナルドやミケランジェロが描く女性はどうでしょうか。
 後で詳しく述べますが、ミケランジェロが描いた女性はプロレスラーかと見まがうほど筋骨隆々で、色気も何もあったものではありません。、またレオナルドも――ホモセクシュアルだったといわれていますが――美しくはあっても温かい母性や女性特有の柔らかさを感じられない女性を描いています。
p67

ミケランジェロなんかそれを言っちゃあおしまいよという部分だし、天下のレオナルドに関しても容赦がない。冒頭で、芸術家は「変人」でなくてはいけないと喝破した著者だが、さすがにつきあえる変人とつきあいきれない変人を絵から見分けてしまうのである。

ルネサンスはフィレンチェやローマだけで栄えたわけではない。ヴェネツィアやマントヴァ、シチリアなどのイタリアの他の都市にも飛び火し、さらにはフランドルやドイツなどの北方の地域にも広がりを見せる。

その中で著者がピックアップするのは、背景を黒く塗りつぶし、幻想を封じ、人物にリアリティを与えた黒ベタの巨匠アントネロ・ダ・メッシーナ、天使がこちらを覗き込んだり、お尻を見せたりする天井画など構図の「遊び」を求め続けたアンドレア・マンテーニャ、「一点集中法」など幾何学にとらわれた変人中の変人画家パオロ・ウッチェロ、そして男の子のタイツの描くのが得意だった赤の巨匠、料理名としても今に名を残すヴィットーレ・カルパッチョである。

 カルパッチョは、男の子のお尻や足を色っぽく描くのがとりわけ上手でした。彼らが穿いているタイツは一色だったり二色だったり、いろんな柄がついていたりして、実に色とりどりです。p132

やがてルネサンス絵画の旅は、単なる人物の肖像だけの世界から、いつしかその絵の中に描かれた世界観の迷宮にまで入り込むことになる。続いて紹介される北方の画家に至っては、本書に掲載された画像に加え、Googleで画像検索をかけながら読んでゆくと、一目でわかる圧倒的な画力と個性とともに、何かとんでもないことが起こっていたのではないかと気づかされるのである。

二度のイタリア訪問を通じ北方絵画に自由奔放な感覚を持ち込んだ自然描写の達人アルブレヒト・デューラー、驚異の写実的描写力を誇る肖像画の巨匠ハンス・ホルバイン、楳図かずおよりも怖いと著者が語るマティアス・グリューネヴァルト、北の巨人ピーテル・ブリューゲル…ヤマザキマリという格好の案内人を得た北方の画家たちをめぐる旅は、それぞれの絵画が包含する圧倒的な情報量によって目もくらむような冒険の旅に変わってゆく。たとえばブリューゲルの『ゴルゴダの丘への行進』をヤマザキマリはこのように語る。

 キリストの処刑が主題なのに、その手前で何か騒ぎが起きていたり、奥のほうでは何も関係ないかのように遊んでいる子がいたりします。このように画面の中で、いつも何かしらドラマチックな展開が起きているのが、ブリューゲルの絵の特徴です。絵の中では時間も空間も静止しておらず、一枚の大きな絵の中に20ページ分もの漫画のストーリーをつめ込んだかのような情報量に満ちています。p153

ルネサンスの絵画は、ある意味、遠近法が成立しつつある過渡期の絵画である。一つの画面の中に遠近の様々な人や物をいかに配置しながら描くか?四コマ漫画やギャグ漫画から劇画に至るまでほとんどの漫画の中で近代的な遠近法が徹底されている現代において、そこから外れた様々なパースペクティブの絵画を学ぶことは、漫画やイラストを描く人にとって、時代を超えた新鮮な刺激になることだろう。とり・みきとの共作『プリニウス』において、現代的な漫画表現のみならず、数々の古典的な絵画表現をとりいれながら、漫画と絵画の間の中間地帯での表現に挑戦しているヤマザキマリ。本書は、彼女にとって、ルネサンスの美術こそが、汲み尽くすのできない創造の源泉であり、原点であるとわかる著作である。

これまで自らの海外での経験をベースに著作を出してきた著者だが、本書の中でおそらく初めてといってよいほど、売れない貧乏画家であったころより自分の中に蓄積し続けた西洋美術の知識や教養を動員して語っている。知的好奇心に訴えかけるという意味では、これまでの活字本の中で一番の名著であろう。『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』は、西洋の絵画を愛する人だけでなく、漫画やアニメを愛する人にも、両者の共通項を見つけ出しながら、ルネサンス美術への理解を深め、親しむことのできる一冊である。

ヤマザキマリの著作
ヤマザキマリ『国境のない生き方』 
ヤマザキマリ『男性論 ECCE HOMO』

ヤマザキマリのコミック
ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス 掘
ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス 供
ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス 機
ヤマザキマリ『スティーブ・ジョブズ 機

ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ 此
ヤマザキマリ『世界の果てでも漫画描き ▲┘献廛函Ε轡螢∧圈


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