つぶやきコミューン

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舘野仁美『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.1.01


『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ(中央公論新社)は、『となりのトトロ』から『思い出のマーニー』に至るまで、スタジオジブリでアニメーターとして製作の要となり27年間活躍した舘野仁美の回顧録である。

最初は、フリーランスのアニメーターを一枚160円の薄給でやっていたものの、『快傑ゾロ』の動きに魅せられ、本格的にアニメーションの仕事に入るべく、監修者大塚康生のいるテレコムへと入社、その時に大塚とともに面接したのが宮崎駿と高畑勲であった。

 とにかく緊張していたので、どんな話をしたのか、あまり覚えていないのですが、好きな作品を聞かれて、『未来少年コナン』と『ルパン三世 カリオストロの城』と答えたことは覚えています。そのとき宮崎さんが、少し照れたように「ありがとう」と言ったことも。p32

当時のテレコムでは原画中心の考えが支配的であったが、舘野はその考えに違和感を覚える。

動画は最終的に画面に出る絵です。
〈上手な人がみんな原画になるのではなく、上手な人が動画を描き続けたら、作品はもっとよくなるのに〉
〈動画の地位や待遇がもっとよくなれば、かならずしも原画にならなくても、作品のクオリティに貢献できるのではないか〉
ずっとそう思っていました。
p36

やがて宮崎がスタジオジブリを設立するに及んで、後を追うように、舘野もテレコムからジブリへと移籍。動画チェックを担当するようになる。1987年のことである。

通常、アニメーション関連のドキュメンタリーは、監督目線で進められるが、この『エンピツ戦記』では、原画と動画の間の葛藤・軋轢を中心に進んでゆく。『となりのトトロ』でも、まぶた線をつけろという宮崎とまぶた線を消せという作画担当の指示がぶつかり合う。

 監督からの指示と、作画監督や原画担当者からの指示が矛盾していること、そこからおこるトラブルはその後も多発し、その調整(つまり、泥をかぶること)も動画チェックの役回りなのでした。p44

原画と原画を結んでその間に動画を作ってゆくだけではうまくゆかないアニメーションの現場の奥の深さも、大半の読者ははじめて知ることになる。
 
 英語の表現を見ても、「中割り」、つまり原画と原画のあいだに適宜、絵を入れることが動画マンのおもな仕事だというニュアンスが強いのですが、このように作業上は原画を「主」として、動画は「従」となります。ところがときどきこれが逆転することがあります。
 それは原画をもとに中割りをして動画が描かれて、できあがった絵をラインテストしてみると、原画だけが突出してしまい、スムーズな動きに見えないときです。
p100

スタジオジブリの歴史は、同時に宮崎駿の歴史でもあった。宮崎には圧倒的天才であるがゆえに、周囲の想像を絶する発想の凄みを随所で感じるが、とくにこのエピソードは忘れがたい。

 1994年の秋に社員旅行で奈良を訪れ、猿沢池のほとりを歩いていたときのこと。その鳥の種類がなんだったのか覚えていないのですが、池には水鳥の姿が見えました。たまたま近くに宮崎さんがいたのですが、空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。
「おまえ、飛び方がまちがってるよ」
〈えええーっ!?〉
 私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです。
p53

そして、その要求はそのままアニメーターたちの身に降りかかる。その意味するところは、写真やビデオなどの資料を見てそのまま描くなということである。

やがて舘野仁美の存在は、ジブリにおいて必要不可欠な存在となり、それが証明されたのが『ホーホケキョ となりの山田くん』であった。父親の病気を機にしばらく現場を離れていた舘野だが、鈴木プロデューサーの依頼で、最前線に立つや、海堂尊描くジェネラルルージュ速水晃一のような獅子奮迅のはたらきによって、絶望的な遅れで完成のメドがつかなかった『山田くん』を何とか公開に間に合わせてしまうのである。

本書のもととなる原稿が発表されたジブリの小冊子『熱風』が発行され続けているために、スタジオジブリは今もなお続いているような錯覚を覚える。しかし、アニメーション制作集団としてのスタジオジブリは、完全に消滅してしまった。そこに集まっていた何十人ものトップクラスのクリエーターたちも、各地へと散らばりもう二度と集うことがないという厳然たる事実を、読者は『エンピツ戦記』の末尾で突きつけられる。

  そして9月6日、宮崎さんの引退会見が開かれました。引退会見を受けて、社内で説明会が開かれ、あらためて、『マーニー』の制作後に制作部門の社員全員が退社となること、ただし2014年末までは社員としての身分が保証されることなどが説明されました。
  まだ『かぐや姫』が完成していない中で、私たちは岐路に立たされようとしていました。『マーニー』が終わればジブリを去らねばならないという厳しい現実が目前に迫っていました。
p186

そのことの何という喪失感。そしてリアルタイムでスタジオジブリの新作を見続けることができた私たちが、いかに幸福な時代に生きて来たかを改めて知るのである。

舘野仁美もスタジオジブリをやめ、アニメーションの仕事からも足を洗い、全く違うカフェの経営という仕事を始めた。

2014年12月に西荻窪駅北口に店を構えるササユリカフェが(@sasayuricafe)がそれだ。しかし、このカフェは普通のカフェとはやはり違う。見晴らしのよい屋上からは、晴れた日には遠く富士山を眺めることができ、店内ではアニメ関連の展示が行われ、宮崎駿のオリーブの木も置かれ、アニメ関係者の来客が絶えない。三鷹の森ジブリ美術館同様、ササユリカフェにも、ジブリの思想は受け継がれ、今なお息づいているのである。
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