つぶやきコミューン

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國分功一郎監修『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』2(A〜F)
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略



この記事では、Disc1に収められたインタビュー(A〜F)までを扱う。かなり詳細なものもあれば、簡略にスキップしたものもある。

『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』
の映像の中では、注意すべき点が三つある。

一つは、ドゥルーズのファッションだ。服装の変化によって、同じ日の撮影がどこからどこまでであるかを暗示している。その時の体調によってドゥルーズが快活であったり、疲れて声がひしゃげていたりすることもこの座標軸とともに理解できるのである。

もう一つは、インタビューの相手のクレール・パルネの映り方だ。一つはドゥルーズの背後に鏡の中に映った正面からの絵であり、もう一つはカメラに向けた後ろ姿である。正面のからの絵は質問に答えるドゥルーズに見えている映像を代行し、背後からの絵は質問するパルネの場に、視聴者を置く。主体と客体、二つのものが同時に視界の中に存在するということが重要なのだ。

もう一つは、ドゥルーズが最初から最後までメガネをつけたり、外したりすることを繰り返していることである。近視や老眼で視力が低下した人がメガネをかける時、人は外界に意識を向けていると一般には見なされる。そして、めがねを外しているとき、人は内へと意識を向けやすくなる。外から内へ、内から外へ、意識の焦点の当て方の往復運動の中に、「アベセデール」のドゥールーズは存在する。それはドゥルーズの到達点も言えるライプニツ論『襞』で定式化されたバロック的な運動を想起させずにはおかない。

Aの項(字幕翻訳:國分功一郎)では動物(Animal)が語られる。動物への生成変化や、ノミ、ダニなど、動物に縁の深いドゥルーズだが、まず犬や猫をdisることよりドゥルーズは始める。ここでドゥルーズが嫌うのは、動物との人間的関係だ。動物とは動物的な関係を持つ必要がある。動物そのものは、一つの世界を持つという意味で創造に匹敵し、賞賛に値する。この項目の核心は、待ち構える存在としての動物を物書きや哲学者と比較しながら、そこでの彼らの使命を明らかにした部分である。物書きは、私的なこと、祖母の死や自分の病気を書くのではない。書くとは言語やシンタックスを極限へともたらすことだとドゥルーズは主張する。次の一節は圧倒的である。

物書きが言語を極限へともたらす者であり、
その極限が言語と動物性、言語と叫び、言語と歌を隔てるなら、
物書きは死んでいく動物を前にして責任がある
死んでいく動物に応えなければならない
書くのは彼らのためではない
私は自分の猫や犬のために書くのではない
死んでいく動物の代わりに書くのだ
それが言語を極限へともたらすということだ

また、この項ではなぜ法外な言葉をつくりあげる必要があるのかも説明される。例として挙げた脱領土化( deterritorialization )の概念に関して、ドゥルーズが自画自賛しているのも面白い。

領土は必ずそこから出ていく運動と関係を持つ
だから運動と領土をまとめる言葉が要る
それがフェリックスと一緒に作り上げた
大好きな言葉”脱領土化”だ

B(字幕翻訳:三浦哲哉)では飲酒(Boisson)が語られる。かつては酒に頼って物を書こうとしたが、今はその危険に気づきやめた立場から、飲酒の逆説的な定義が語られる。

酒のみになるというのは飲むのをやめ続けようとすることだ

酒のみがさがすのは、最後の一杯ではなく、実はそのひとつ前の杯である。翌日にも酒を楽しむためには、最後の一つ前の杯で止め、飲みすぎてはいけない。

偉大なヴィジョンを求め、酒浸りとなったアメリカの作家、フィッツジェラルドやトマス・ウルフ、ドゥルーズの家周辺を徘徊したフランスの詩人ヴェルレーヌのことも語られる。

Cの項(字幕翻訳:三浦哲哉)ではCulture(教養)が語られる。毎週のように映画や劇を見、文化的な生活を享受しているように見えるドゥルーズだが、自分は知識人、教養人ではないと言う。何でも知っているし、何でも語ることができる教養人を前に、ドゥルーズは呆然とするだけで、羨むことはない。教養の何が嫌かというとそれがおしゃべりと結びついていることだ。

話すことは不潔で、書くことは清潔だ

話すのが不潔なのは愛想をふりまくからである。知識人の旅というのも最悪で、一種の道化芝居、おしゃべりの場所を変えただけにすぎない。文化や教養の代わりにドゥルーズが信じるのは出会い(rencontre)である。人との出会いではなく、事物や作品、音楽、絵画などとの出会い。そのために外に出て待ち伏せする必要がある。哲学によって、哲学の外へ出る必要があるのだ。

『襞』の読者からの手紙に驚くべきものがあった。それは折り紙協会の人、そしてサーファーからの手紙で、「あなたの言う襞とは私たちのことだ」と書いてあった。このような誤配性を含んだ出会いこそ、真の出会いなのである。いつもアイデアとの出会いに賭けているとドゥルーズは言う。

何かが起きて私を揺る動かそうと語りかけてくるのを待つ

のである。さらに文化的に豊かな時代(たとえば「解放」から五月革命の直後)とそうでない時代(今)の比較が語られる。今はジャーナリストが物書きとして振る舞うようになり、書くことは取るに足りぬ誰にでもできる行為とされ、テレビの顧客が視聴者からスポンサーに変わった時代、その時代に反して語ろうとする。砂漠を横切ることは何でもないが、おそるべきなのは砂漠のただ中に置かれることである。第二のベケットが生まれたとしても、それが世に出ない社会では誰も気づかないがゆえに惜しまれることもないのだ。

Dの項(字幕翻訳:千葉雅也)では欲望(Désir )が語られる。ここでドゥルーズが語るのは、ガタリとともに『アンチ・オイディプス』の中で提示した欲望の構成主義的な捉え方である。

あなたは誰かや何かを欲望するのではない
あなたが欲望するのは何らかの集合なのだ

プルーストが書いているように、ある女性を欲望するときには彼女に含みこまれた風景を同時に欲望するのである。人生全体のコンテキストの中でその集合を欲望するのである。

欲望するとは一つの配置を構成することだ
何らかの集合を構成することなのだ

フェリックス・ガタリと二人で書くことの意義についても、欲望についての支配的な考えへの敵意という共通点に加え、ポテンシャルの違いがあることが配置には必要だったとドゥルーズは語る。さらにこの本がおかしな連中を生み出したのではという風評に対し、ドゥルーズは人々を救うためという自著の意図の擁護を努める。無意識は多様体であり、妄想は家族ではなく世界ついての妄想であり、無意識を機械として、工場として捉えるべきというエッセンスを要約しながら『アンチ・オイディプス』が再発見されてほしいという言葉で締めくくる。

Eの項(字幕翻訳:千葉雅也)では子ども時代(Enfance)が語られる。パリではずっと17区に住んできたドゥルーズだが、その転居の歴史は凋落の歴史であると冗談交じりに言う。父親は右派のブルジョワであり、人民戦線を恐怖していた。やがて戦争が始まるとドーヴィルへと移り住むことになるが、そこは海を初めて見る労働者階級の人でいっぱいであり、ブルジョワたちは大きなショックを受けていた。それまで平凡な少年であったドゥルーズが目覚めることになったのは、そこで青年教師アルヴァックスと出会ったからだ。ジイドやボードレールも彼から学んだ。「奇妙な戦争」のころにパリに戻ったドゥルーズが出会ったのが、大好きだったヴィアル先生。哲学の授業を受けたその日にこれこそ自分がやるべきことと悟る。同じ学校にはメルロ=ポンティも教えていたが、憂鬱な目をしている以外強い印象を受けなかった。こうした記録は他の何かとの関係においてのみ価値があり、記録自体に価値はないとドゥルーズは言う。それは文学とは正反対の行為であると。ここから怒涛のように始まるエクリチュール=生成変化論は前半の白眉の一つである。

人は自分の中を何事かが通過するから書く
まさしく生のために書くのだ
そして何かになるのだ
書くことは生成変化だ

子どもになることによって語られるのは、誰かの子ども時代ではなく、ある一つの世界の子供時代である。

文学の課題とは書くことで子どもになり
世界の子供時代に向かいそれを回復することだ

「文学とは何か?」という問いに対するドゥルーズの解答の核心がこの項には集約されている。

Fの項(字幕翻訳:千葉雅也)は忠実さfidélité)となっているが、実際に語られるのは友愛(amitié)についてである。友愛は忠実さではなく、知覚の問題であるとドゥルーズは言う。分かり合うためには、共通の考えを持つことではなく、共通の言語、あるいは前=言語を持っていることが必要である。自分に何が適合するかを教えてくれる知覚、『プルーストとシーニュ』で言及されたような記号を解読する能力の問題なのである。ブヴァールとペキュシュやローレルとハーディのようであったというガタリとの友情や、一陣の風のようであったというフーコーなど様々な友人との関係を分析し、さらには哲学者=知恵の友という言葉の起源まで遡りながらドゥルーズがたどりつくのは、人をひきつける魅力が発揮されるのは、狂気を通してのみであるという結論である。

人は誰でも少し狂っている
そこを把握することだ
(3に続く)

関連ページ:
國分功一郎監修『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』
國分功一郎監修『哲子の部屋 機
千葉雅也監修『哲子の部屋掘

國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(2)

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