つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< July 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
島田裕巳・中田考『世界はこのままイスラーム化するのか』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

                            Kindle版
『世界はこのままイスラーム化するのか』(幻冬舎新書)は、宗教学者島田裕巳とイスラーム法学の権威中田考の、イスラームをめぐる対談である。この種の本としては、中田考と内田樹の対談『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』がすでにあるが、本書は対談相手が日本で五指に入る宗教学者ということもあり、該博な島田の日本と世界の宗教知識を枠組みとしながら、外部から見ているだけではわからないイスラームの内部に踏み込んだ問いに中田が答える形をとり、内容的には一段と深いものとなっている。

この内部事情というものはいくら外から研究してもわからない部分であり、それゆえにこの対談は価値があると「おわりに」の中で中田は述べている。

 日本でも同じことですが、社会の構成と行動様式は、内部の人間にとっては自覚されないほどに「当たり前」、「自然なもの」であって通常明文化されておらず、深い付き合いのない外部の人間には理解が困難であるのが常です。イスラームの場合も同じで、イスラームの思想や政治を専攻していても、文献資料に主として依拠する研究者によるムスリム社会の分析は、このムスリム社会のグランドリアリティーの理解を欠いているために、ムスリム自身から見ると的外れに見えることがしばしばあります。その点、島田先生は、トルコ人ムスリムと国際結婚した妹さんとの親戚付き合いを通じてムスリムの社会構成と行動様式を「体感的」に理解しておられるため「話が通じ」、実りある対談ができたと思っています。pp205-206

個人的に理解できた重要点をおおまかにまとめると以下の三点になる。

一つはイスラームの、キリスト教やユダヤ教など、他の宗教と比較した場合の違いとは何かということである。仏教や神道まで含めても、イスラームには他の宗教と大きく異なった部分があり、それが既存の宗教概念の枠の中では理解されにくいのである。

ユダヤ教の「ヤハウェ」、キリスト教の「父なる神」、イスラーム教の「アッラー」は同じ神のことであるが、イスラームはモーセもイエスもイスラームの予言者の一人であり、ユダヤ教もキリスト教もイスラームであったと考える。それゆえムハンマドはイスラームの開祖ではなく、最後の予言者であるにすぎない。ただモーセやイエスが「民族的予言者」であるのに対し、ムハンマドは「人類全体に遣わされた予言者」であり、その後に預言者は現れてはならないのである。ユダヤ教もキリスト教も、預言者の死後、後世の人が創作したものであって神の教えそのものでないとイスラームは相対的な価値しか認めない。だが、イスラームによって、アブラハムの宗教は統一されなかった。そこに今日にまでの争いの起源がある。

イスラームの経典であるクルアーンはユダヤ教やキリスト教と異なり、預言者の起こす奇跡的な物語がほとんどない。クルアーンの奇跡性と言う場合、内容の真理性、整合性だけでなく、その音韻的・音楽的特性も含まれる。

 モーセの時代のエジプト文明は魔術にすぐれ、それを誇っていたので、モーセは預言者の徴として、人の業を超えた方術の奇跡を授かりました。イエスの時代は、すぐれた医術を誇っていたので、イエスは預言者の徴として、どんな難病も治してしまう医術の力を授かった。
 ムハンマドの時代のアラブは、詩を尊び詩才を誇っていたので、ムハンマドはいかなる詩人にもまねできないクルアーンを預言者として授けられたわけです。そしてアラブ文学史上、今日にいたるまで、クルアーンに匹敵する完璧なアラビア語の作品は一つも現れていません。ムスリムがクルアーンを永遠の奇跡と呼ぶのはそのためです。
p43

日本における仏教では、檀家はお寺に属しているが、ムスリムはモスクに属しているわけではない。そもそもイスラームには組織というものがないのである。イスラームは布教活動そのものをしないが、アッラー以外のものに従わないという宣誓をするだけでいいというハードルの低さや、商売に役に立つという実利的な理由や子供の多さから増え続けているのである。

第二は、イスラームの内部における宗派、とりわけスンナ派とシーア派との違いと、現代にいたるまでの勢力の推移に関してである。

イスラームにおける「派」を、キリスト教や仏教の宗派、分派からの類推で考えるのは間違いの元である。

思想の自由な一致によってゆるやかに結びついている「学派」の方が実態に近いかもしれません。p57

スンナ派とシーア派の対立は、ムハンマドの死後の後継者問題にその起源を持つ。このとき、皇帝たちがムハンマドの親友アブー・バクルをカリフに選び、それに不満な人々がムハンマドの従兄弟で娘婿のアリーこそ真の後継者と考えた。アリーは4代目カリフとなるがそれに反旗を翻したのがウマイア朝の始祖ムーアウィアである。アリーは不満分子たちに殺され、ムーアウィアがアリーの死後カリフとなる。

 この四代目アリーの前までのカリフと、その後ムアーウィアが開いたウマイヤ朝以降のカリフを認めるのがスンナ派です。それに対して、「アリーこそがイスラームの教えを誤りなく伝える無謬のイマームであった」と考えるシーア派が生まれます。つまりシーア派では、イマームは、アッラーから「無謬の存在」として、預言者ムハンマドの後継者に選ばれた者と考えられている。一方、スンナ派のカリフは世俗的な指導者です。イマームの無謬性と絶対的権威を認めていないスンナ派は、シーア派から見るとムスリムではない。そこに二つの派の根深い対立があります。pp58-59

スンナ派とシーア派では、モスクこそデザインが違うのでわかるが、人は外観も礼拝の方法もほとんど区別がつかない。違うのはお金の面で、シーア派は収入の経費を除いた五分の一を、イスラーム学者に収めなければならないが、スンナ派は資産の2.5パーセントの浄財(ザカー)を納めるるだけでよい。

スンナ派はイスラームの8割を占めるが、現代はシーア派が勢力を拡大しつつあり、イランでは9割5分、イラクは6割、バーレーンは8割がシーア派である。シーア派が勢力を増した背景には、1501年に成立したサハヴィー朝がシーア派を国教に定め、ウラマー(イスラーム学者)が権限を拡大したことがある。それが1979年のホメイニ師によるイラン・イスラーム革命につながる土壌となったのである。

 こうして強いシーア派の国家が生まれたことで、スンナ派とシーア派の対立・抗争が高まりました。逆に言うと、イラン・イスラーム革命(一九七九年)以前というのは、両者は共存できていたんです。p65

第三は、カリフ制再興を掲げる中田のヴィジョンと、それが理想とする本来のイスラームの姿である。ここにはユーロ圏に比肩することのできる新しい世界観があることを読者は知ることだろう。本来のイスラームは、神の意志のみを絶対とし、それ以外の人間の組織がそれに代わることを認めることのない社会思想である。それは領域国民国家の存在そのものも否定してしまう。それゆえ通俗化されたイスラーム国家しかない現在の世界には、まだ存在していない社会形態である。

本来イスラームは、一つであるべきだが、近代における欧米の植民地化政策により、中東やアジア・アフリカのイスラーム圏は列強によって寸断されてしまい、カリフ不在の状態が続いている。植民地が独立しても、領域国民国家の形はそのまま残ってしまったのである。現在のイラクやシリア、エジプトをイスラーム国家と呼ぶこと自体が問題である。

 イスラームは「服従すること」「帰依すること」を意味する言葉です。要するにイスラームとは、唯一神アッラーだけに従うものであって、アッラー以外のどんな人間や組織も他者を支配する権利はありません。
 ところが現実のイスラーム世界では、国民国家という枠組み残り、王家や政府など、アッラー以外の権威が至るところにはびこっています。それを考えると、いまはどこにもイスラームが実現されている場所はないわけです。
pp138-139

本来のイスラームとは、国家の概念も国民の概念もなく、神以外の支配層など存在しないものなのである。カリフ制再興によって一つのイスラーム世界ができれば、現在の政治支配層は利権を失うことになる。それゆえ、カリフ制再興を公の場で口にすることができるようになったのはごく最近のことにすぎない。

再興されるべきカリフ制とはどのようなものか?イスラームは世界を「イスラームの家」と「戦争の家」に分ける。その基準はイスラーム法によって治められているかどうかである。

 「イスラームの家」は理念的には一つで、イスラーム教徒であれば、人種、民族、国籍を問わず、たとえ「戦争の家」の地域に住んでいても、ウンマの一員として、誰でも受け入れますし、自由に移動することができます。
 そして、この「イスラームの家」で、イスラーム法を執行し、ムスリムの安全な生活を守る役割を負わされる人間がカリフです。ですから「イスラームの家」においては、国境はないわけですね。グローバルなイスラーム世界があり、カリフがいて、イスラーム教徒はイスラーム法だけに従う。そういう政体がカリフ制です。
p151-152

カリフがいるだけであとは勝手に社会が回ってゆくのは、一種のアナーキズムではないかという島田に対して、中田はこう答える。

 まさしくアナーキズムですよ。たとえば、カリフは教育にタッチしない、教育は社会や共同体任せになるんです。p160

イスラームは人間の内面を知ってよいのは神だけであり、人間が他の人間の心に踏み込むことは厳しく戒められているので、心の教育は行わない。その行き着くところはグローバルな平和的アナーキズムであると言う。

おそらく今日考えうる最も自由な社会の形態が中田の考えるカリフ制再興なのである。それは現在の領域国民国家とも、支配層の利権とも正面から対立するがゆえに、数年数十年といったスパンでは実現されるようには見えない。しかし、世界に貧富の差が広がり、領域国民国家の絶えまない争いとその犠牲者がうまれ続ける限り、人が他の人や組織に属したり、服従したりするシステムはつねに疑問の対象として、その存在理由を問われ続けることだろう。マルクス主義が新しい社会システムへの革命に関して失望しかもたらさないことが明らかになった今、領域国民国家を介さないイスラーム主義は、21世紀、そして22世紀を照らす希望の光の一つとなるにちがいない。

2030年には22億を超え、キリスト教徒よりも多くなると予想されるムスリムとの付き合い、対話を抜きにしては、世界で生きることも不可能となることだろう。テレビや新聞、ネットで流れるイスラームに関する情報の多くは、多くの誤りや偏見を含んでおり、差別や排外主義を生み出しかねないものも少なくない。そうしたノイズに思考を影響されないために必要な、日本語による最も精度の高いイスラームの知識は、他の中田の著書と並んで、本書の中にあると言っても過言ではない。

関連ページ:
内田樹・中田考『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』
内藤正典『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』
常岡浩介『イスラム国とは何か』

コメント
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://mkamiya.jugem.jp/trackback/525
 

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.