つぶやきコミューン

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上杉隆『悪いのは誰だ!新国立競技場』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.1
 


新国立競技場の問題に関しては、この国の悪い部分が一気に束になって表面化したかのように見える。そこには、霞ヶ関と永田町、スポーツ界と建築界の様々な利権が集約されている。そして、アスリートを置き去りにして、経済と政治が、責任を一元化してコントロールされることなく暴走する。その結果が白紙撤回である。白紙撤回なら原状復帰できればベストであるが、旧国立競技場は取り壊されたまま更地として放置される一方で、JSC本部と日本青年館の取り壊しと新築も進められている。言い換えるなら、本体の建築は白紙撤回されても、それを口実に進められてきた周辺利権はまるごと温存されたままなのである。

こうした新国立競技場の問題に、多くの証言者の声を参照しながら、多面的な角度で切り込んだのが、ジャーナリスト上杉隆『悪いのは誰だ!新国立競技場』(扶桑社新書)である。タイトルこそキャッチーだが、本文の内容は淡々と事実や証言を重ねているスタイルで、著者のトークに付き物のセンセーショナルな煽り文句も、執拗なまでの繰り返しとも無縁で、コンパクトにまとめられている。それゆえ、先入観から上杉に対するアレルギーのある人間以外は、ニュートラルな資料の集成として読み進めることができるだろう。

 現在の混迷の原因が、一義的には新国立競技場建設の事業主体であるJSCと所轄官庁の文部科学省にあるのは確かであろう。だが、それはあくまで単純化されたモノの見方にすぎない。新国立競技場だけに焦点を当てると、かえって本質が見えてこないのである。
 今回の混乱を解き明かすには、より鳥瞰的に全体像を見渡すことが欠かせない。
 そのためには、東京オリンピック招致構想が持ち上がった2000年まで時を遡る必要がある。
p9

かくして第1章では、この問題の起源となる石原都知事時代のオリンピック誘致問題から掘り起こそうとする。そのキーパーソンとなるのが、石原の懐刀であった高井英樹という男である。都が独自に導入し裁判となった「外形標準課税」の誤納金返還のための準備金の残額、約4千億円こそがオリンピック招致のための資金となった。オリンピックの前哨戦となったのが東京マラソンである。利権にあぶれた朝日新聞が反対論を抑えるために、石原は森喜朗とのパイプによってスポーツ界の支援をとりつける。そして2007年には、2016年のオリンピック招致に向けて立候補することが決定する。当時新しい競技場は「海の森公園構想」として、臨海地区につくることになっており、その中心となったのが安藤忠雄であった。やがて安藤と黒川の対立関係は黒川の都知事選立候補という形となって表面化する。石原は、デザインを安藤に一任しようとしたが、安藤はコンペの開催を主張する。そこでの最大の肝とは、「設計者」ではなく、「設計監修者」を選ぶことであり、ここにこそ諸悪の根源があったのではないかと上杉隆は指摘するのである。

 設計監修者を選考するということは、ほかに設計者が存在することになる。事実、実際の契約では、設計業務を請け負ったのは日建設計・梓設計・日本設計・アラップ設計共同体だった。コンペではザハ・ハディドが最優秀案に選ばれたが、ザハは設計監修者のため彼女が全体から細部に至るまで、たとえ緻密な設計をしたとしても、設計者が別にいればどうにでも変更が可能になってしまう。仮にそんなことになれば、変更の調整に不毛かつ膨大なエネルギーを注ぐことになる。さらに、コストや品質の管理、安全性の確保に対して責任の所在が曖昧になる。p51

他にもこのコンペには、不透明な部分、疑惑の部分が多くあるが、この設計監修者とは別の設計者を設けたところに、最大の問題点があるように思われる。つまり恣意的に競技場の高さを定めたり(その高さに便乗して周囲の建築の基準も緩和させる)、床面積を広げたりして、有識者会議に代表される各業界の利権を全部入りにし、利権を最大化するために、設計者/設計監修者の二重構造は用いられたのである。

とは言え、もしも臨海エリアに新国立競技場がつくられたなら、旧国立競技場も併用され、一つの施設に過大な要求が盛り込まれることもなかったであろう。ラグビーのワールドカップ開催と旧国立競技場の改修を一本化しようとしたことより、工期はよりタイトになり、問題はより深刻化したと考えることもできる。続く第2章では、一つ目の利権としてラグビー利権を取り上げる。新国立の予算見積もりが乱高下した背景にあるのも、利権を手つかずで残すために見え透いた過少申告を繰り返したために他ならない。そして第3章ではJSC利権を取り上げる。衆議院議員の玉木雄一郎は語る。

 「(…)まるでザハ案を口実にするかのように、すでにJSC本部ビルは解体され、日本青年館も解体工事中です。JSC本部ビルは、築22年、日本青年館は築36年と、国税庁が定めたオフィスビルの耐用年数に照らせば、まだまだ十分に使うことができた。
 にもかかわらず、JSCは166億円もかけて建設される新しいビルに入居することが決まっている。しかも、このビルが豪華にすぎる」
p110-111

そして第三の利権が、都営霞ヶ丘アパートの廃止に絡む東京都の利権であるという。ザハ案に合わせて、神宮外苑地区の高さ制限は75メートルに緩和される。第4章で浮かび上がるのが、石原の後を受けて都知事となり、オリンピック招致に成功させた猪瀬直樹と森喜朗との対立関係であった。森にとって猪瀬は目の上のこぶ的な存在であり、金銭問題で猪瀬が失脚したのを最も喜んだのも森であった。猪瀬なきあと、森は鈴をつけるものがない存在として、傍若無人の振る舞いに及ぶ。但し、森イコール利権の権化と考えるのは誤解を招く部分がある。森のラグビーへの愛好などは下手の横好き的な公私混同にすぎない部分が大きい。ただ、そのやり方が古く、意向は通しても、全責任をとり利害を調整するマネジメント能力を発揮しない点で、解決よりも混迷に輪をかけてしまうことが問題なのだ。

第5章では第1章ででてきた不可解なデザインコンペの細部を検討する。そこでの要点は、設計監修者のザハよりも先に、設計JVとの契約が先に行われていた点である。

 ザハ案は白紙に戻されたが、着工前の設計やデザインの契約料として9月1日現在に判明しているだけで、およそ62億円の契約料が支払われた。このなかからザハ事務所に支払われたのは、デザイン監修料の14億円。契約料の大部分は、「設計者」である設計JVに流れている。
「本来の設計者であるザハの権限を著しく弱めて、表に顔を出さない極めて政府寄りの設計者があらかじめ準備されている仕組みだった」
pp140-141(発言は、建築家の團紀彦)

本書の全体を通読することで浮かび上がるのは、利権の詰まったビンの中に手を突っ込んで中の利権を少しも捨てることができないために、まんまと罠にはまり身動きの取れなくなった猿のような、日本の経済界、スポーツ界、建築界、官僚、政治家たちの戯画である。ザハ=ハディドもこの複雑極まりない利権の構図の犠牲者と言ってよいだろう。いったん白紙撤回になったとは言え、工期の期限は迫り、一向に新しい図面も見えてこない。新国立競技場の建設を、著者が石原慎太郎の言葉を借りて言うように、はたしてオリンピックという国際的な舞台に間に合わせることで、日本が利権と談合体質という古い衣を脱ぎ捨てることができるかどうか、その行方を注目したい。

  新国立問題が噴出した今だからこそ、2020年東京オリンピックが社会変革の装置となるかどうかを見極めなくてはならない。p198

多くの国民が注視する中で、利権にメスを入れるがゆえに敬遠されがちな問題を包括的に取り上げた本書のタイムリーな出版は大いに評価されるべきであろう。

関連ページ:
槇文彦・大野秀敏編『新国立競技場、何が問題か』

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