小橋めぐみ『恋読 本に恋した2年9ヶ月』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 ver.1.02
『恋読 本に恋した2年9ヶ月』(角川書店)は、女優小橋めぐみの読書日記である。ところどころに書評とおぼしき文章も見られるが、本自体は書評集ではない。どこまでもある女優の本のある生活日記なのである。
ここでは本を読む経験が、本を読む場所、前後で出会う人、間で食べる食べ物、過去の思い出と一体となって、豊かな言葉の海を形成している。あるものは本の中身とシンクロし、相互に照らし合い、そうでないものは感覚的な借景として本の中身を引き立てる。それらは、私たちが本を読むときに出会いながら、必ずつきまといながらもよそ行きの文章では分離しようとするコンテキストなのだが、本書の中では混然一体となって心地よい感性のタペストリをかたちづくっているのである。
小橋めぐみは、子役である14歳のころから芸能界に籍を置き俳優としてさまざまな役柄を演じてきた。俳優は、一般の人とは異なる言葉との関係性を生きる職業である。一般の人にとって、小説や漫画といったフィクションであれ、ノンフィクションであれ、書かれた本は、心こそ感情移入しながらも身体のレベルにおいては自分とは離れた他者の経験として読まれる。しかし、俳優において、本は台本として多かれ少なかれ変形されながらも、その内容を身体のレベルにおいて生きることを余儀なくされる。自分の脳内だけでなく、共演者とともに登場人物が、ロケーションやセットという形で背景も現前化するのである。さらに本の中の言葉や行動を自分の身体のレベルにおいて再現しながら、生きることになる。他なる存在として本の中身は、このような演技の過程の中で、受肉化される。そして、その場で生み出される感情も、息を吹き込まれ固有化されるのである。俳優は、女優は、本の中に込められた情熱を、自らの身体を通じて再生させる存在なのである。サルトル的に言えば、それは一種の<自己拘束(アンガージュマン)>である。
それゆえ、小橋めぐみが選ぶ本のほとんどはフィクション、内外の小説や漫画などの物語である。
職業としての女優の、このような訓練や演技は、本、とりわけ物語に対する感度を極限まで高めることになる。たとえそれに対して演技を求められない場合でも、読書によって気に入った物語とシンクロし始めると、映画やテレビドラマ、戯曲の中で配役され生きるのと同じ効果が生じる。
書評家の豊崎由美は「小橋めぐみの感性に、わたしは嫉妬を覚える」と書いているが、小橋めぐみの感性を成人が身につけるのは無理な相談である。小橋めぐみの鋭敏すぎる感性は、多感な思春期のころからの女優人生、その中で本を演じ続けてきたことと不可分だからである。
俳優はノマドな存在である。スタジオの中に押し込められる場合もあるが、多くの場合、屋外のロケであちこちの場所を移動する。撮影現場から撮影現場への移動の間にも、小橋めぐみは本を離さない。
京都の紅葉が、そして上野公園の大噴水の前が、そして駒場公園の旧前田侯爵邸が、本を読む女優小橋めぐみの存在を引き立てる。
本を読む女優小橋めぐみは、いつしか書評家としても認知され、そのために対談をしたり、話し言葉で本について語る場もできる。すると一層人との出会いが本との出会いにつながる。
本から人へ、人から本への、終わりなきつながりを小橋めぐみは生きているのである。
本の中の経験は、感情を生み出す。同じような経験を私生活の中で行ったことがある場合、二つの経験はこの感情によってつながり合い、混然一体となった世界を作り出す。このようにして、坂口恭平の『徘徊タクシー』に登場する恭平の祖母トキヲの記憶は、そのまま小橋めぐみの祖母の経験と一つになるのである。
この日記が書かれる2年9ヶ月の間にも、祖母の認知症は進み、加齢によって祖母は生から死へと近づいてゆく。若い小橋の時間と、離れた場所で流れ続けるもう一つの時間が、本書に超躁的な時間構造を与えている。そして、吉本ばななの小説のように、夢の中で祖母は登場し、その距離がゼロになったところで祖母は死ぬ。
『恋読』は、中に小橋めぐみのカラー写真を数ページ収めて、普通のタレント本のように見える作りにもなっている。写真の中の小橋めぐみは美しいが、その美しさは線こそ細いものの、眉が切れ上がり、薄い上唇をした美少年の、ボーイッシュな美しさ、いつでも変装によってBL小説の主人公になれそうな美しさであり、それが一層魔性を、久世光彦が19歳の彼女に感じたのとは別の魔性を感じさせる。
そこでふとほっとするのは、食べ物を口にするときの少女らしい仕草である。
「気配を消し、静かに食べ始める」のさりげない艶っぽさ、無邪気にこんな文章を書いてしまう小橋めぐみの感性に、読者もまた恋してしまうのだ。
あるいは、京都のとある店で、きゅうり抜きのハムサンドを頼んだ時の心の移ろい。小橋めぐみは、本に恋するように、食べ物にも恋をする。
小橋めぐみにとって、本と、本を持って訪れる場所と、そこで口にする食べ物・飲み物は、は三位一体の関係にある。
一度入ったことがあるのにすっかり忘れていた店の記憶が鮮やかに蘇った。一歩間違えば『なんとなく、クリスタル』の世界に陥りかねない、たった四行の時間の凝縮度に痺れる。
さらに本好きの人間に追い打ちをかけるのはこんな文章だ。
まるでつのだじろう描く『空手バカ一代』の中で大山倍達が、肩のあたりをさしながらこのへんまでと瓦17枚を積み上げるのを求めるように、13冊の本を図書館で無邪気に積み重ねてしまう小橋めぐみが、この上もなく愛らしく思えてしまう。
その他、
や
といった本に関する名言、迷言がいっぱい。
『恋読 本に恋した2年9ヶ月』は、本について書かれたもっともチャーミングな本の一つである。
時代の波よ。
それでも私は本を買い続けるし、紙で読み続けたい。
死ぬまで。
そして自分の棺の中を、花ではなく、愛読書で埋めてもらいたい。
一緒に灰になりたい。
(『恋読 本に恋した2年9ヶ月』)
『恋読 本に恋した2年9ヶ月』(角川書店)は、女優小橋めぐみの読書日記である。ところどころに書評とおぼしき文章も見られるが、本自体は書評集ではない。どこまでもある女優の本のある生活日記なのである。
ここでは本を読む経験が、本を読む場所、前後で出会う人、間で食べる食べ物、過去の思い出と一体となって、豊かな言葉の海を形成している。あるものは本の中身とシンクロし、相互に照らし合い、そうでないものは感覚的な借景として本の中身を引き立てる。それらは、私たちが本を読むときに出会いながら、必ずつきまといながらもよそ行きの文章では分離しようとするコンテキストなのだが、本書の中では混然一体となって心地よい感性のタペストリをかたちづくっているのである。
小橋めぐみは、子役である14歳のころから芸能界に籍を置き俳優としてさまざまな役柄を演じてきた。俳優は、一般の人とは異なる言葉との関係性を生きる職業である。一般の人にとって、小説や漫画といったフィクションであれ、ノンフィクションであれ、書かれた本は、心こそ感情移入しながらも身体のレベルにおいては自分とは離れた他者の経験として読まれる。しかし、俳優において、本は台本として多かれ少なかれ変形されながらも、その内容を身体のレベルにおいて生きることを余儀なくされる。自分の脳内だけでなく、共演者とともに登場人物が、ロケーションやセットという形で背景も現前化するのである。さらに本の中の言葉や行動を自分の身体のレベルにおいて再現しながら、生きることになる。他なる存在として本の中身は、このような演技の過程の中で、受肉化される。そして、その場で生み出される感情も、息を吹き込まれ固有化されるのである。俳優は、女優は、本の中に込められた情熱を、自らの身体を通じて再生させる存在なのである。サルトル的に言えば、それは一種の<自己拘束(アンガージュマン)>である。
それゆえ、小橋めぐみが選ぶ本のほとんどはフィクション、内外の小説や漫画などの物語である。
職業としての女優の、このような訓練や演技は、本、とりわけ物語に対する感度を極限まで高めることになる。たとえそれに対して演技を求められない場合でも、読書によって気に入った物語とシンクロし始めると、映画やテレビドラマ、戯曲の中で配役され生きるのと同じ効果が生じる。
「想像ラジオ」を読み終える。部屋でひとり、声をあげて泣く。
胸に突き上げる悔しさを吐き出さなければ、何かが壊れてしまいそうで。津波に呑まれて、高い杉の木のてっぺんにひっかかった男性が発信する、想像ラジオ。p118
書評家の豊崎由美は「小橋めぐみの感性に、わたしは嫉妬を覚える」と書いているが、小橋めぐみの感性を成人が身につけるのは無理な相談である。小橋めぐみの鋭敏すぎる感性は、多感な思春期のころからの女優人生、その中で本を演じ続けてきたことと不可分だからである。
俳優はノマドな存在である。スタジオの中に押し込められる場合もあるが、多くの場合、屋外のロケであちこちの場所を移動する。撮影現場から撮影現場への移動の間にも、小橋めぐみは本を離さない。
合宿終了!帰りの電車の中で夏の緑を横目に再び読み始める。地下鉄や混んでいる車内より、空いていて、できれば窓から見える景色も美しい車内で読むのが何より幸せだ。pp15-16
京都の紅葉が、そして上野公園の大噴水の前が、そして駒場公園の旧前田侯爵邸が、本を読む女優小橋めぐみの存在を引き立てる。
本を読む女優小橋めぐみは、いつしか書評家としても認知され、そのために対談をしたり、話し言葉で本について語る場もできる。すると一層人との出会いが本との出会いにつながる。
本から人へ、人から本への、終わりなきつながりを小橋めぐみは生きているのである。
本の中の経験は、感情を生み出す。同じような経験を私生活の中で行ったことがある場合、二つの経験はこの感情によってつながり合い、混然一体となった世界を作り出す。このようにして、坂口恭平の『徘徊タクシー』に登場する恭平の祖母トキヲの記憶は、そのまま小橋めぐみの祖母の経験と一つになるのである。
読んでいて、一緒に住んでいた認知症の祖母のことが、次々と蘇ってきた。
私は何度も思った。どうして祖母は外へ出て行きたくなるのだろう、と。
外は暑いのに。寒いのに。雨が降っているのに。
歩くのもやっとなのに。誰もいないのに。
p193
この日記が書かれる2年9ヶ月の間にも、祖母の認知症は進み、加齢によって祖母は生から死へと近づいてゆく。若い小橋の時間と、離れた場所で流れ続けるもう一つの時間が、本書に超躁的な時間構造を与えている。そして、吉本ばななの小説のように、夢の中で祖母は登場し、その距離がゼロになったところで祖母は死ぬ。
『恋読』は、中に小橋めぐみのカラー写真を数ページ収めて、普通のタレント本のように見える作りにもなっている。写真の中の小橋めぐみは美しいが、その美しさは線こそ細いものの、眉が切れ上がり、薄い上唇をした美少年の、ボーイッシュな美しさ、いつでも変装によってBL小説の主人公になれそうな美しさであり、それが一層魔性を、久世光彦が19歳の彼女に感じたのとは別の魔性を感じさせる。
そこでふとほっとするのは、食べ物を口にするときの少女らしい仕草である。
貴船のとある料亭をお借りしての撮影。開店前に終わらせなければいけないため、急ぎ足。「はい、撤収!」の声とともに、向こうのほうから、さっさと片付けられる鮎たち、シーンの中では食べる芝居がなかったので、手付かずのまま残された鮎。
諦めきれない私。
気配を消し、静かに食べ始める。
数秒後、片付けていたスタッフさんと目が合う。
「いいよ。食べちゃって」「ありがとうございます」
無言の笑顔のやり取り。
だいぶ冷めていたけれど、川床で頂く鮎は、やっぱり絶品だった。p95
「気配を消し、静かに食べ始める」のさりげない艶っぽさ、無邪気にこんな文章を書いてしまう小橋めぐみの感性に、読者もまた恋してしまうのだ。
あるいは、京都のとある店で、きゅうり抜きのハムサンドを頼んだ時の心の移ろい。小橋めぐみは、本に恋するように、食べ物にも恋をする。
すごくワガママを言ってしまった気持ちになり、少し落ち込む。数分後、店員さんが、わりと大きな声で、「お待たせしました。ハムサンド、きゅうり抜きでございます」と言った。
気を取り直して、一口頬張る。
……うまっ!見た目はごく普通だけど、うまっ!
きゅうり抜き、正解!
一人で静かに興奮。心が良い状態になったところで、本を開く。
p96
小橋めぐみにとって、本と、本を持って訪れる場所と、そこで口にする食べ物・飲み物は、は三位一体の関係にある。
「ハリー・クバート事件」下巻、読了。
日比谷、フレッシュネスバーガーの二階の窓側にて。読み終わった本をテーブルに置き、ふうっとイスにもたれかかる。目の前には、ザ・ペニンシュラ東京。雨上がりの空。窓の外を見ているふりをしながら、静かに泣く。
p185
一度入ったことがあるのにすっかり忘れていた店の記憶が鮮やかに蘇った。一歩間違えば『なんとなく、クリスタル』の世界に陥りかねない、たった四行の時間の凝縮度に痺れる。
さらに本好きの人間に追い打ちをかけるのはこんな文章だ。
今まで、図書館で借りられる冊数が五冊だったのが、今月から十五冊借りられることになった。嬉しくて、読みたかった本をどんどん本棚から取り出しては、机に積み上げていく。計十三冊になった。その十三冊をカウンターに持っていったら、係の方が目を丸くして、「返却期間はご存じですか?」と、おっしゃった。p205
まるでつのだじろう描く『空手バカ一代』の中で大山倍達が、肩のあたりをさしながらこのへんまでと瓦17枚を積み上げるのを求めるように、13冊の本を図書館で無邪気に積み重ねてしまう小橋めぐみが、この上もなく愛らしく思えてしまう。
その他、
美味しいレストランは店構えで分かるように、面白い本は、表紙にオーラがあると思う。p29
や
本の重さ、紙の匂いがなくなるなんて、絶対に嫌!読み終わった後に、すりすりできないなんて、寂しすぎる!p85
といった本に関する名言、迷言がいっぱい。
『恋読 本に恋した2年9ヶ月』は、本について書かれたもっともチャーミングな本の一つである。