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坂口恭平『家族の哲学』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略      ver.2.01



『家族の哲学』(毎日新聞出版)は、坂口恭平の小説である。先立って刊行された躁鬱日記の第二弾である『幸福な絶望』と同じ題材を扱っているにもかかわらず、まるで異なる文体と作風を持った作品である。外への旅行、飲食、本や映画、音楽など様々なメディアの登場、多くの人との交友関係が、カーニバル的に溢れだす『幸福な絶望』が、躁状態の坂口恭平を基準にしているのに対し、『家族の哲学』は鬱状態の坂口恭平を基準として描いた、いわば陰画的<私小説>なのである。

先行する作品を用いて言えば、『徘徊タクシー』で描かれた坂口家の人々の肖像の延長とも言えるが、鬱状態の坂口恭平を視点とし、躁状態の坂口恭平をモニターし続けるという点では『幻年時代』の方法を発展させたものと見ることができるだろう。

 目をさますと、私は死にたくなっていた。
 妻のフーが言うところによると、そのとき私はまったくの別人になっていて、否定的なささやきなど聞こえていないはずなのに、二十四時間、耳元で鳴っていると嘆いているそうだ。そのため他者に会うと、みんなが私を指差して嘲笑しているように感じてしまい、ついには外出することもできなくなってしまう。
p8

『家族の哲学』の中心となる登場人物は、「私」坂口恭平と、その妻フー、長女のアオ、長男のゲンである。しかし、そこには通常の父、母、子のイメージはない。家長であるはずの坂口恭平は、一方で家計を支えつつも、鬱状態に入ると日々絶望のどん底であがき、フー、アオ、ゲンによって補完されながら、かろうじて日々を生き延びることができるのだ。そこにあるのは、ツリー状の家族ではなく、フラット化されたパッチワークとしての家族なのである。

 私の場合は、人の助けが必要だった。私にとってはそれがフーだったのである。しかも、フーの予言どおり、のちにアオ、ゲンという二人の子どもができてからは、彼ら自体も、死の淵に立っている私を外に引っ張り出す風神・雷神となった。
 家族とは私にとって救命隊員なのだ。
p189

その特異な関係の日々を描きながら、ときに坂口恭平が幼年時代や、思春期であったころの坂口家の記憶が、とりわけ父と母、弟との関係が、プルーストの『失われた時を求めて』のように、連想の中で呼び出される。それは、鬱状態になると繰り返される罪悪感、後ろめたさのルーツをたどる旅なのである。参照される家族は、坂口恭平の父と母だけではない。さらに父の弟である失踪した叔父、さらには中学、高校時代に交際していた女の子菜穂の家族に至るまで、次々と呼び出され続ける。その少女は、リストカットの常習犯であった。彼女を救おうとする恭平、そしてそれに反対する父と母、その流れはそのまま新政府「いのちの電話」となって現在につながる。気がつくと、家族の傍らで横になっている赤の他人の少女フミカがいたりする。異物を排除しようとするかつての坂口家に対して、異物を排除することのなく受け入れてしまう現在の坂口家、開かれた家族の境界は一体どこにあるのだろう?

  あきらかに叔父の存在は異物であった。
しかし、本来、他者はすべて異物であるはずだ。それなのに、わが家には異物を侵入させないバリアが張ってある。
p103
   叔父の侵入によってわが家には亀裂が入っていたが、私には悪い兆候というよりも、むしろ植物が忍び込むことのできる自由な隙間に見えた。夢遊病者のふりをした私は、暗闇から今の灯りのもとへおどり出ていく。p106

描かれるのは、単に現実に外界で起こった出来事だけではない。鬱状態になった坂口恭平に、現実と幻の区別はつかない。躁状態が「誇大妄想」であるとすれば鬱状態は「被害妄想」の状態にあり、その負のスパイラルが止まることなく繰り返されるのである。悪夢のような幻覚が、ときには夢そのものが目の前の現実と混然一体となってボーダーレスに描かれる。子どもたちを追い散らす象の姿は神社より大きく、救急隊員の顔はのっぺらぼうである。

しかし、フーという女性の存在によって、そのすべては日々の天気の変化のような自然現象としてとらえ直される。精神的に死の淵を彷徨うかのような事態が、フー、アオ、ゲンとの家族のつながりによって、ありふれた日常へと救出されるのである。さらに、鬱状態は次の段階へと精神が進化するために必要なソフトのアップデートの作業としてポジティブな光を与えられる。

  私は分かったのだ。絶望は絶望ではないのだ、と。
  絶望は絶望と見せかけて、体を停止させ、その間に、新しい体の動きを知覚した細胞たちが、ひっそりと身を隠しながら、訓練をし、改良を重ねるという時間なのだ。整備中なのだ。パソコンで言えば、インストール中だ。インストール中にパソコンのキーボードをばちばち打ち込む人間がどこにいる?そんなことをすればパソコンはパニックに陥る。ただ、インストールが完了するのを待つだけだ。
p213

一種のひきこもり小説である『家族の哲学』は、『幸福な絶望』に比べると、外の世界の描写は驚くほど少ない。しかし、熊本の日限地蔵とコラージュされる横浜の日限山地蔵、日吉神社、とりわけ二度にわたる明八橋…そのわずかな外界のシーンは、まさに家族の力によって坂口恭平が光の元へと連れ出される瞬間であり、鮮烈なイメージを読者の心に残す。

 上空から、燃えかすが螺旋階段を下りるように落ちてきたので、私は薄目のまま煙草のけむりを手で払った。鼻には日限山地蔵尊から漂ってくる、無数の線香の香りが入り込んでいく。
「あ、黒揚羽」
 フーがそう言うと、真っ黒い揚羽蝶は突然、意識が戻ったように、私とフーの顔の間をすり抜けていった。両翼を羽ばたかせながら、国道を走る車の群れのほうへ去って行く。後ろ羽が玉虫色に光る黒揚羽は、見たこともないような翼の形をしていた。
p55

ベートーヴェンの交響曲『田園』の第五楽章では、第四楽章嵐の響きをとどめながらも、いつしか世界は再び明るい陽射しと歓喜に包まれる。それと同じような移行の瞬間が坂口恭平にも訪れ、フーの視線によってとらえられる。

  フーの感嘆の声を聞いたとたん、体の変化が起き、私の気は突然、楽になった。
  私は思わず、笑みを浮かべた。
「あれ、顔色が変わった?」
  フーも変化に気づいたようだ。
p237

やがて坂口恭平はこうしたできごとをそのまま書けばいいのだと決意することになる。まさにプルースト的円環のうちに、『家族の哲学』は幕を閉じるのである。

 「あっ、分かった。そうだ、フー、これ、これを書けばいいんだよ。これを書けばいい。この状態、この会話、それをそのまま、何の衒いもなく、ただ素直に書けばいいんだよ。いつかの時代の、もう遠い昔の、今はもう見ることができない、原始時代でも、室町時代でも、十九世紀末のパリでも何でもいいんだけど、そんな時代にも人が生きていることをふと思い出し、その人々が行き交う雑踏や、喧噪や、ふとした仕草が頭に思い浮かぶように、今のこのフーとアオとゲンとおれと親父と母ちゃんとその周辺のゆかいな仲間たちが動く姿をそのまま書けばいいんだ」p248

『家族の哲学』は、坂口恭平のどの作品よりも、自らの病める自我に向かい合い、かつてなく深く掘り下げた私小説の傑作である。

関連ページ:
坂口恭平『幸福な絶望』
    PART2(地名索引)
    PART3(人名事典)
    PART4(書名事典)
    PART5(音楽・映画事典)
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