又吉直樹『東京百景』
又吉直樹『東京百景』(ヨシモトブックス)は、お笑い芸人(現芥川賞作家)又吉直樹の東京のさまざまな場所をめぐる100章からなるエッセイ集である。百景とは言うものの、実際には又吉が生活した高円寺や吉祥寺周辺、あるいは下北沢周辺などかなりの重複が見られるので、満遍なく東京中の百ヶ所をカバーしているわけではない。具体的にどんな場所が登場するかは、PART2(地名辞典)にまとめてあるので参照されたい。
通常ひとはある場所で長く生活すればするほど、その場での経験が蓄積し、個々の経験の印象はホワイトノイズのように曖昧になってゆく。しかし、又吉直樹の場合には個々の経験が鮮明なかたちで残っている。
過去をひきずる男はみっともないらしい。僕はひきずるどころか全ての想い出を引っ提げて生きている。想い出が僕の二歩前を歩いていることさえある。p203
その経験の大半は誰もが経験するようなありふれたものであり決して珍しくはないのだが、又吉の場合にはそれに屈折した自意識のリアクションが加わることで、内的なドラマが生成する。百景を百景たらしめるのは、場所の持つ普遍的な特徴ではなく、むしろこの内的なドラマによる個人的な特徴づけなのである。
歪んだ自意識のドラマとはディスコミュニケーション、コミュニケーション不全のドラマであり、その第一のタイプはつねに裏切られる過剰な期待である。それは決して又吉固有のものではないのだが、普通ひとはみっともないので期待が裏切られたと分かった段階で、ため息をついて水に流してしまう。しかし、又吉の場合にはそれのディテールを細かく記憶し、そして書かずにはいられない。
たとえば、誕生日に皆がサプライズを仕掛けていると勝手に期待する、そしてあだな望みは見事に外れることのみじめさ、恥ずかしさ。
来るぞ!来るぞ!前列のお客さんが少し動いた?お花か?クラッカーか?「もぉ〜!」という恥ずかしげなテレ笑いで顔を上げると完全に幕が下りていて、皆が「お疲れ様でした〜」と言っていた。そもそも僕の誕生日など誰も知らなかったのだ。僕は、とんだ勘違い野郎だ。恥ずかしかった。いや外に出るまでは油断禁物だぞ。観客の前で盛大に祝ってしまうと、僕が照れてしまうと配慮してくれたのかもしれない。しかし、僕は誰よりも早く草月ホールの外に出られてしまった。誰にも止められなかった。赤坂の夜の風はとても冷たかった。p148
その経験はさらにお笑い芸人の習性、常に身辺にネタを、多くの場合自虐的なネタを探す習性によって強化されずにはおかないのである。
第二のタイプは、過剰な自意識を持った人間ゆえのドラマである。過剰な自意識は、それ自体が変則的で目立った言動を生み出す。要するに挙動不審に なってしまうのである。それゆえ、匿名性の世界に隠れたつもりでも、目立たずにはいられない。それはただ単に又吉が有名人であるからではなく、行動そのものが不規則だからなのである。又吉直樹が警察の不審尋問に驚くほど引っかかってしまうのもこのためである。
職業を聞かれ「芸人です」と答えると、僕を交番まで連れて来た警官が、「あれ?見たことあるかも」と僕の顔を覗き込むように見た。そして数秒後にパッと明るい表情になると、「あっ、見たことある!よく職務質問される人だ!」と言った。
その通り。僕は舞台や番組で職務質問されると再三にわたり主張し続けて来た。警官という職業柄聞き流せずに「本当か〜?」などと疑い、覚えていたのだろう。警官は、「へ〜!本当に職務質問されるんですね〜!」と感心しながら頷いているが、感心している当の本人が僕に職務質問を持ち続けたわけだから話は単純のようで複雑だ。pp180-181
第三のタイプは、こうした自意識の大作家、とりわけ太宰治への重ね合わせから生じる。経験は先行する文学的なコンテキストへと結びつけることによって強化され、意味づけされる。自意識のドラマが自分固有のものではなく、万人に共通のものであることに明証的なかたちを与えたのが太宰治であるが、又吉はそれを拠りどころにある時は自らの経験を正当化し、ある時は太宰の与えたシナリオを演じてしまう。それゆえ、又吉直樹に対する読者の共感は二重である。第一の共感とは過剰な自意識のドラマそのものへの共感であり、第二の共感はそのドラマを本の世界に重ね合わせてしまうことへの共感、文学青年的自意識への共感なのである。
上京して最初に住んだアパートは、後から解ったのだが偶然にも太宰治の住居跡に建ったアパートだった。
そんなことも知らずに、僕は太宰が作品を書いた場所で、太宰の作品を貪るように読んでいた。今思えば不思議な体験だ。この場所で太宰の文章を腹に入れたい衝動に駆られ、実際に新潮文庫を破って食べたことがある。p24
太宰治は自分の恥部をさらけ出し、生命をかけて笑われようとした。
『趣味は少しずつ粉砕されることです』
命をかけて何かを表現しようとした僕の英雄たちは偉大だ。安全な位置から吠えている臆病な卑怯者とは大違い。
『キミとキミを足して2で割ったものが無意味です』
僕のギャグは全くウケず、がらにもないことをやるもんじゃなかったなと後悔しそうになりながら、ギャグを続け、さっきまで爆音が鳴り響いていた下北沢のライブハウスは東京で最も静かな場所になっていった。
pp158-159
『東京百景』に収められた100編がすべて実話に基づくわけではない。そのいくつかは遭遇した場所や書物が生み出した妄想のエピソードとでも言うべき性格を持っている。そこから夏目漱石の『夢十夜』のような幻想的フィクションまでの距離は限りなくゼロに等しい。
存在しないハーモニカを探す作業で疲れてしまったので飲み物でも買おうと外に出た。すると路傍に倒れている男がいた。近付いてみると、その男も流星に衝突された被害者だった。男は流星に復讐がしたいと言うので、僕は懐に忍ばせておいたピストルを男に貸してあげた。p110
これらの自意識の重層的性格によって、場所を語りながらも、同時に自分の経験を、さらに自分の心のドラマを驚くほど雄弁に語ってしまうのが『東京百景』という本なのである。
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