藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う。』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本
文中敬称略 ver.1.01
恋愛工学こそがその学問ではないか、と思う。天、すなわち生まれ持ってのイケメンや御曹司みたいな生まれ持っての金持ちがモテるのではなく、生まれにかかわらず、こうして恋愛工学を学ぶ者が女にモテることができるようになる。
恋愛も、勉強する者だけが救われるのだ。p303
Kindle版
藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う。』(幻冬舎)は、恋愛工学の概念を用いた恋愛小説である。わかりやすく言えば、一種のナンパ小説形式の自己啓発本、恋愛版の『夢をかなえるゾウ』だと思えばいい。
ストーリー仕立ての自己啓発本には、鉄板の公式がある。それは家屋のリフォーム番組である「劇的改造ビフォーアフター」と同じである。まず、ダメな私がいる(ビフォー)。そして失敗続きで、途方に暮れたところでメンターに出会い、一つずつノウハウを学んで軌道修正してゆく(匠の登場)。そして、依然とは比べ物にならないほど、成功した私になるというものである(アフター)。
この匠の技術、ノウハウに相当するものが恋愛工学だと思えばいい。
ドラマティックな展開を可能にするためには、ビフォーとアフターの落差は大きければ大きいほどよい。
だから、初心で純真な青年渡辺正樹が主人公となる。この主人公の姿は、大体田舎から東京へ出てきたほとんどの男子学生の発想と重なることだろう。異性を特別な存在として美化してしまう、そして少しずつ友人として仲良く、距離を詰めてゆこうとする。このようなアプローチは、知人・友人段階までスムーズにゆく。だが、そこから恋人段階へと進もうとするとすると共通の壁に突き当たることになる。要するに、オスとは認識されず、「いい人」のままで終わってしまうわけだ。
渡辺の前に現れたメンター、恋愛工学の匠である永沢圭一はそれを次のような言葉で表現する。
「お前みたいな欲求不満のその他大勢の男がやることといったら、非モテコミットとフレンドシップ戦略だけなんだよ」永沢さんは耳慣れない言葉を使った。
「非モテコミット?」
「非モテコミットというのは、お前みたいな欲求不満の男が、ちょっとやさしくしてくれた女を簡単に好きになり、もうこの女しかないと思いつめて、その女のことばかり考え、その女に好かれようと必死にアプローチすることだ」
「でも、それはその女の人のことを愛しているということじゃないんですか?」
「そうかもしれない。どっちにしろ結果は同じだがな。女はこういう男をキモいと思うか、うまく利用して搾取しようとするかのどっちしかしないんだよ」p50
そしてそれを克服するには、次の公式に沿って行動するしかないというのである。ものすごくシンプルである。
モテ=ヒットレシオ×試行回数
このヒットレシオ×試行回数というのは、要するに打率×打数ということである。但し打率は、知り合って連絡を取り合う確率ではなく、よりハードルの高いセックスに至る確率である。
とは言え、この公式は冒頭の数十ページで明示されるわけだし、恋愛なんて数撃ちゃ当たるというだけなら、そのへんのヤンキーだって言える、そして頭でっかちなオタクよりは成功を収めている。問題は、いかに打率を高めるかである。
最初はお手本を示しながら、次には保護者的につきそいで、そしてやがて独り立ちさせ、試行錯誤の中で、多くの恋愛工学のノウハウが圭一から渡辺正樹へと伝授される。
タイムコンストレイントメソッド、メタゲーム、フォロースルー、ペーシング、ミラーリング、バックトラック、イエスセット、そしてきわめつけはスタティスティカル・アービトラージ戦略!
スタティスティカル・アービトラージ戦略とは、連絡先をゲットした女性を同時並行してアプローチしながら成功の確率を高めてゆくという戦術である。
たとえ五十人の連絡先をゲットしたとしても、最後までゆける相手は2、3人かもしれないし、ゼロかも知れない。
まず全員の名前を書きだしその属性をデータベース化する。この書類選考の段階で、15名に絞り込んだ女性も、実際にデートに持ち込めるのは3、4人程度。
そして、キスをし、自宅まで同行してもらえても、最後まで行けるのは…
恋愛は場数だと言う恋愛論者は数多いが、数十人単位の異性交際をそのままストーリーにした小説は初めて読んだ。
しかし、技術を磨き、場数を増やした渡辺はやがて、スランプにぶつかってしまう。
一体何が間違っていたのだろうか。そう、恋愛工学はテクニックと場数が勝負などという底の浅いものではなく、彼が修めたのは守破離の守の部分にすぎなかったのだ。
恋愛は目的を見失ってはいけない。
そして、何よりも忘れてはいけないのは、商品であるのは女性ではなく、男性の方であるということなのだ。
さらに、物語の後半は想定外の方向へ物語は動き出す。人生最大の危機が渡辺に迫る…
この本を読んで、二十代前半の時期に出会っていれば、どんなにつまらない勘違いを避け、遠回りすることなく済んだことだろうと、帯文の堀江貴文のように思う部分があった。だが、同時にかつての純粋素朴な自分も悪くはないなと思わせる演出がラストでおこなわれている。読者の過去を否定させ、後悔させない心憎い仕かけだ。ノウハウに夢中になってストーリーを追いかけていると、最後には純愛小説で落とす。伊豆の描写も丁寧で素敵である。『僕は愛を証明しようと思う。』は、単なる自己啓発書ではなく、泣ける恋愛小説なのである。