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坂口恭平『幸福な絶望』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略  ver.1.01



坂口恭平『幸福な絶望』(講談社)は、坂口恭平の著作の中でも、ターニングポイントとなる著作である。一見すると、2013年末に出た『坂口恭平 躁鬱日記』の続編のように見える。映画の世界では、PART2というのは、大体似たような展開の繰り返しで、しか前作に比べトーンダウンすることが多いものだが、『幸福な希望』にそれはあてはまらない。ページが進むにつれ、どんどんパワーアップし、世界が豊かになる。そしてどんどん加速し、テンションも上がってゆく作品なのである。

一体この二年の間に坂口恭平に何があったのだろう。

その手がかりとなる二つの書物が昨年、そして今年出版されている。一つは『現実脱出論』であり、もう一つは『ズームイン、服!』である。『現実脱出論』は、躁鬱病を抱えた自らの世界の見方と創作の方法論を結びつけた画期的な書物であり、いわばアンドレ・ブルトンの『シュールリアリズム宣言』や、ランボーの「見者の手紙」のようなマニフェストである。マニフェストでありながら、自分とその同類である人々を救済する福音書となっているところが坂口恭平の特異な点である。他方、『ズームイン、服!』は、一見服装の類型学のように見えながら、実は多様な思考と生き方を持った人々の類型学となっている。ここで加速するのは、他人への興味、好奇心である。多分に坂口恭平成分を注入しながら、描き出す人物の肖像は、確かにモデルの何かを伝えているが、同時に坂口恭平の分身的存在として、坂口恭平ワールドを構成することになる。

坂口恭平にとって、すべての出会いは必然である。必然に変わらないような偶然はない。面白い人と出会うのではなく、坂口恭平がひきつけ出会うすべての人は面白いのである。

病者の光学という創作の方法論を確立し、さらに様々な異能者や土地の顔役を結ぶ対人的なネットワークを、移住の地熊本を中心に展開するとき、それまで暗中模索、試行錯誤の連続であった坂口恭平の足跡にもある安定性が加わり、そして豊穣な世界が日々開けてゆくようになる。そのプロセスそのものが、この『幸福な絶望』には描かれているのである。

そのプロセスを特徴づける三つの要素がある。

第一の要素は、セーフティネットとしての家族である。躁鬱病を抱える坂口恭平においては、記憶の連続性が断ち切られる。躁状態である坂口恭平を坂口・S・恭平、鬱状態にある坂口恭平を坂口・U・恭平とすると、坂口・S・恭平は坂口・U・恭平の言動の記憶がなく、また坂口・U・恭平に坂口・S・恭平の文章を読ませたとしても理解することができないのである。
つまり坂口恭平が統一された人格である坂口恭平として行動しうるためには、誰かが坂口・U・恭平の言動を坂口・S・恭平に伝達する必要がある。その役割を果たすのが、妻であるフー、長女アオ、そして長男ゲンということになる。

  あなたは躁のときの坂口恭平、鬱のときの坂口恭平、それぞれ相方を綺麗さっぱり忘れているけど、私とアオは一生忘れないから、何の問題もないよ。躁鬱にはね、何の原因もないよ! ただの自然現象! だから寝てたいだけ寝ておけばいいし、それができるようにするために、今まで苦労しながら、この生活スタイルを作ってきたんだから……。良かった。良かった!p40

『幸福な絶望』
では、特にフーに取材することで、何があっても泰然と乗り切る彼女の力の根源へと坂口恭平が直撃インタビューによって迫ることになるだろう。

躁鬱病によって、意識の下深くまで沈むことによって、坂口恭平は創造的な力を獲得倍加し、深い海に棲息する魚のような特異な作品を手に入れることができる。ドローイングや小説などの作品はお金に代わり、それは坂口家の家計を支える。躁鬱の波は、坂口家の人々にとって、晴れた日もあれば、嵐の日もある海と同じような自然現象である。単に躁鬱病とうまく付き合うだけでは十分ではない。躁鬱病を、産業化する必要があるのだ。冒頭において、坂口恭平は孤独な喜劇俳優のような存在である。しかし、家族というセーフティネットは単に坂口恭平に依存すると同時に、支える中で、坂口恭平の世界と一体化する。最初は、単なる登場人物として描かれる対象であった者が、歌を覚え、作詞し、楽器を覚え、いつしか自らの声で語り出し、やがて家族まるごと歌のステージへと上がってしまう。家内制手工業が成立する中、孤独な喜劇俳優は、いつしか旅芸人の一座へと変わってゆくのである。

第二の要素は、熊本への愛である。抽象的な郷土愛ではなく、食べ物をめぐって、あるいは書物をめぐって、坂口恭平が、坂口家が移動する無数の行動の点の分布する地図として熊本は描かれる。『幸福なる絶望』は、熊本版の『なんとなく、クリスタル』のようなものである。お好み焼き「たつみ」、ケーキ屋「シュマン・ダンフィニ」、カフェ「PAVAO」、中華料理店「紅蘭亭」、「魚よし」、一つ一つの固有名詞の後ろには、隠れた宝石のような海の幸、山の幸が眠っている。そしてそれらの名店が貴重な財宝たりうるのは、単に食べ物や名産の力だけでなく、和紙屋の「森本」や長崎次郎書店や文房具の文林堂のように、見事に時代と地域性を表現した建築とともになのである。

 古いものを残そうとしている人たちはたくさんいるが、その古いものが古くなったときの生き生きした鼓動を記憶している人は少ないからだ。森本のおっちゃんは日本で唯一の明治時代からの店構えのまま、釘一本も変えずに、いまだに同じお店で営業している。こんな空間は、日本中探してもどこにもないだろう。p47

『幸福なる絶望』は、読む人がみな熊本が好きになり、訪れたくなる、そして、出て来る店や地名を片端から訪れ飲み食いや買い物する中で、一層熊本の魅力を発見したくなるような熊本に恋する本なのである。

第三の要素は熊本の人々である。熊本への愛は、パッチワークのように、坂口恭平と坂口家のテリトリーを広げ、その過程において坂口恭平は多くの人と出会ってゆく。渡辺京二石牟礼道子伊藤比呂美といった人と出会う中で、単なる個人の放浪や紀行ではない別のものが、ネットワークのはざまから立ち上がる。そして、来るべき雑誌「ろびんそん」を核とした共同体のようなものへと世界は収斂してゆくのである。有名な文化人だけではない。無名の人、自ら死を決意し、しかしいのちの電話との出会いによって死ぬことを遅延させ続けている人々をも、雑誌に参加させ、書くことへと巻き込むことによって坂口恭平は生かし続けようとするのである。

エンディングは、躁状態の極みなのか、自動筆記のように、滔々と言葉がほとんど流体となって流れてゆく。おそらくはあまりに危険と思って自制したためであろう、こうした文章の自由な奔流も、これまでの坂口恭平にはなかったものである。単調な響きで始まったものが、いつしか家族のみならず、周囲の人や店を巻き込み、ベートーヴェンの第九のように、無数の人の声を取り込みながら、交響曲的な広がりを見せ、生の賛歌を謳いあげる。それが『幸福な絶望』の最大の魅力なのである。

関連ページ:
坂口恭平『ズームイン、服!』
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坂口恭平『坂口恭平 躁鬱日記』
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