つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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岸政彦『断片的なものの社会学』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略



今年出会った中で最も心に残る書物のひとつ、『断片的なものの社会学』(朝日出版社)は、社会学者岸政彦が、フィールドワークの間でつづったエッセイ集、グレングールドの「間奏曲集」のような書物である。その特徴は、一貫して大きな言葉を拒絶し、また大きな物語を拒絶しながら書かれていることにある。

大きな言葉とは、普遍を志向する学問的な用語であり、大きな物語とは一つによって時代や社会全体を代表するような普遍的な物語である。

そもそも断片的なものとは何だろうか。

 そもそも自己というものはさまざまな物語の寄せ集めである。世界には、軽いものや重いもの、単純なものや複雑なものまで、たくさんの物語があり、私たちはそれらを組み合わせて「ひとつの」自己というものをつくりあげているのだ。
 さらにいえば、私たちは、物語を集めて自己をつくっているだけではない。私たちは、物語を集めて、世界そのものを理解している。
pp58-59

私たち人間は、みな断片的なものの集まりにすぎず、また断片的なものによって世界像を構成しながら理解している。こうした断片的なもの、小さな言葉、小さな物語を集める形で、著者も社会学の研究を行っているという、潔いまでに徹底した認識がそのベースには存在する。

 さまざまなつてをたどって、見ず知らずの方に、一時間か二時間のインタビューを依頼する。私と人びととのつながりは、この短い時間だけである。限られた時間のなかで、その人びとの人生の、いくつかの断片的な語りを聞く。インタビューが終わったあとは二度と会わない方も多い。顔も名前もわからない方に、電話でインタビューしたことも何度かある。
 こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することはひとつの暴力である。
p13


小さな言葉、小さな物語をそのままの状態にとどめること。なぜなら、それらを大きな言葉、大きな物語へと変えることは暴力的な行為であるからだ。

 ある人が良いと思っていることが、また別のある人々にとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。
 完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰も傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰も排除することもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人々の区別を、自動的につくり出してしまう。
p111

大きな言葉と大きな物語を拒絶するとき、浮かび上がるのは、「これ性」の世界である。ちょうどたまたま海辺で拾った小石や貝殻がそうであるように、この話は、この話であるがゆえに私は惹かれ、これを愛するという世界、偶然と無意味が支配する世界である。

 私には幼稚園ぐらいのときに奇妙な癖があった。路上に転がっている無数の小石のうち、どれでもいいから適当にひとつ拾い上げて、何十分かうっとりとそれを眺めていたのだ。広い地球で、「この」瞬間に「この」場所で「この」私によって拾われた「この」石。そのかけがえのなさと無意味さに、いつまでも震えるほどに感動していた。p6

そうして社会の中から拾い上げられる物語とは、世間一般の価値観の彼岸にあることにおいてのみ、「これ性」の輝きを保っている。

 私は、ネットをさまよって、一般の人びとが書いた膨大なブログやTwitterを眺めるのが好きだ。五年も更新されていない、浜辺で朽ち果てた流木のようなブログには、ある種の美しさがある。工場やホテルなどの「廃墟」を好む人びとはたくさんいるが、いかにもドラマチックで、それはあまり好きではない。それよりもたとえば、どこかの学生によって書かれた「昼飯なう」のようなつぶやきにこそ、ほんとうの美しさがある。p7

「これ性」の輝きは、ちょうどヘンリー・ダーガーの作品がそうであるように、それがそこに存在しながらも、それが知られなかった世界も可能であることによって一層切実なもの、一層いとおしいものになる。

  ヘンリー・ダーガーの作品があれほど私たちの感情を揺さぶり、世界中を驚嘆させたのは、両性具有や児童虐待というそのモチーフだけでなく、それが死の直前に発見されるまで誰の目にも触れなかったという事実である。それはあやうく永遠に世界から失われるところだったのだ。信じられない偶然がいくつも重なって、それはこの世界に残された。そして私たちのもとに届いたのである。p32

本書のめざすところも、いってみれば、私たちの傍らで生きているかもしれない無数のヘンリー・ダーガーを発見することであるかもしれない。名もなきもの、ずっと孤独であったもの、ずっと人知れぬままの存在であったかもしれないものの発見の旅である。

 この世界には、おそらく無数のダーガーがいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。もうひとりのダーガーが、いま私が住んでいるこの街にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。いや、それはすでに失われてしまったのかもしれない。ダーガーの存在に関してもっとも胸を打たれるのは、ダーガーそのひとだけではなく、むしろ、別のダーガーが常にいたかもしれないという事実である。pp33-34

岸政彦の文章は、他のどの社会学者よりも哲学的であり、また文学的である。思弁的実在論のように孤独の世界を探求し、ポール・オースターの諸作品のような、賢者の瞑想性を秘めている。私たちがその文章に魅せられてやまないのは、彼が哲学の大きな言葉や、文学の大きな物語を拒絶しながら、孤独な者、孤独なものたちの真実をつねにきわめようとしているからに他ならない。

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