つぶやきコミューン

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北条かや『整形した女は幸せになっているのか』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略



誰もが変身への願望を持っている。大きく分けて変身には二つの変化がともなう。一つは能力における変化であり、もう一つは見た目における変化である。仮面ライダーやウルトラマンの変化はその両者を含むものだが、通常の人間界における変身は、二つの変化は別のものである。能力における変化は、学力の向上(知的能力)、資格の取得(社会的能力)、スポーツや芸術におけるトレーニング(身体的能力)、ビジネススキルの獲得(経済的能力)といったものがあるだろう。

そして見た目の変身には、化粧やファッション、ダイエット、さらには整形手術が挙げられる。カフカの『変身』は能力における退行と虫への見かけの変化という二つの変身のネガティブな面を、アイロニカルに描いたものだが、一般に変身はよいこととされる。しかし、女性が整形手術を行うことによって見かけの変身を目ざす場合には、副作用への恐れ、発覚への恐れ、周囲の視線、そして本人の自意識の問題など、様々な社会的・心理的問題がともなう。

北条かや『整形した女は幸せになっているのか』(星海社新書)は、もっぱら整形手術を受ける女性たちの心理に迫った著作である。おそらく編集サイドの意向を反映したと思われるタイトルは多分にミスリーディングであり、後半の中村うさぎへのインタビューでは整形後の心理の問題も扱われるが、前半の内容は、整形手術を受けた女性たちへの取材をベースに、もっぱらなぜ彼女たちは整形手術を受けたのかに焦点が充てられている

多くの女性が整形手術を受ける理由は、単純に異性の目を意識したものではない。むしろ自らのセルフイメージの変化によって、自信を得ることが主な目的であると言える。しかし、全く別の人間へと変身したいわけではない。むしろより自分らしくなるための選択である。化粧における見た目の変化の積み重ねは、自分がイメージした別の自分の祖型を創り上げ、プチ整形を行うことで、整形手術に対する心理的ハードルも小さなものとなる。そこから本格的整形に至るまではほんの一歩である。化粧による変身は、今までとは異なる本当の自分というイメージを創り上げるが、逆に素顔に対する違和感が本人の中で生じるようになる。その仮のイメージを固定してより一層自分らしくなりたい、そのような心理によって、本書の中に登場する女性たちは整形へと踏み切るのである。

 「整形」という手段がある今、「私の顔は、『本当の顔』じゃない」という悩みは、ある程度のお金と時間、そして覚悟さえあれば、解決できるものとなっている。「本当の自分を手に入れるため」整形に踏み切る女性は、相当いるのではないかと考えられる。
 自分にとっての「理想の顔」(メイクで作った二重まぶた)と、「素顔」(たとえばすっぴんの一重まぶた)にギャップがあるから、それを埋める。なぜなら「理想の顔」の方が「本当の私」で「しっくりくる」からだ。
p148

整形手術に対する意識は、時代とともに大きく変化している。かつては親から受けた体に手を加えるのは罰当たりといった考え方もあったが、今ではそうした抵抗はより小さくなりつつあるようだ。しかし、依然として整形によるビジュアルの変化はフェアでないという声は女性の中にも根強い。なぜなら、整形では経済力がものをいうからであり、見た目依存社会の切り札である美しさをお金で買う行為は、不正に成功を得るものであるという声が社会から完全になくなることはないだろう。

  この社会は「見た目依存社会」なので、容姿が優れた人は得をする。ボードリヤールが指摘していたように、容姿の優劣は、男性よりも女性により大きく影響する。だから、女性よりも男性、男性の中では、結婚せずに恋愛市場に身を置くゲイの方が、整形で見た目を良くしようとするケースが多い。それはお金で「外見」を買い、そこから何らかの利益を得ようとする行為だ。整形にズルさが漂うのはそのためだ。p223

整形を受ける女性たちが意識する他人の目と、整形を受けた後で周囲から受ける目は、大きく異なる。整形を受けた女性は、それとの戦いを強いられる。だが、整形を受けた事実が、子供が似ていないことによって発覚する恐れは心配するに及ばないというのは、整形を受けるかどうか悩む女性にとっては大きな朗報であろう。というのも、整形を受ける女性たち目指す理想の自分とは、実は両親のどちらか美しいと思われる方への同化を含むものであり、結果として親族におけるバリエーション、誤差の範囲に収まるものであるからだ。

  興味深いのは、いくら整形を重ねても、「遺伝子レベル」で別の顔になることは難しい、という点だ。ある女性の「父親」が美男子でなく、「母親」が美人だった場合、その女性は、整形することで美人の母親に似ていく。父親似だった「マイナス要素」が、整形によってなくなるからだ。整形しても、結局は遺伝子的に近い「親族」の誰かに似ていく女性は多い。「親戚中、誰にも似ていない」ほどまで顔を変えるのは、実は難しいのだ。よって、整形した女性が産んだ子供も、大抵は親族の誰かに似る。こう言っては何だが、「子供が似ていなかったらどうしよう」という心配は必要ない、もしくは整形する女性たちにとって、それほど重要ではないのだ。p167

第4章の作家中村うさぎへのインタビューでは単に整形手術に至る気持ちだけでなく、整形を受けた後の周囲の反応と本人の心理的変化が、つまびらかにされる。さらに、いったん獲得した美が、病気や加齢によって再び失われる危機に直面すると、見た目競争から降りる選択肢も浮上してくる現在の心境がリアルに語られている。整形によって可能な若返りは、15歳までという声も、切実で説得力がある。

著者の前著『キャバ嬢の社会学』は、私的な経験をベースに、周囲への取材によって肉付けする形で内容が構成されていたが、本書の中の著者は、自ら次々に整形手術を受けて、その可能性を実体験によって検証したわけではなく、この点が前著に対する弱点と言えるだろう。とすれば、文献研究と他の女性への取材によって肉付けするしかないわけだが、取材へのスタンスがまだ十分にこなれていない部分がある。本書で取り上げられた女性たちの声がどの程度、女性一般の声を代表するものかは、数値的な裏付けはなく、評価はもっぱら美醜の社会通念にとらわれコンプレックスを抱えた一女性としての著者本人の感覚に基づいて行われている。学問的アプローチは、こうした個人的な固定観念をも相対化するものでなければならない。もしも社会学的なアプローチを目指すのであれば、ある程度母数をとった上での独自アンケートや調査といった学問的なアプローチが必要となるであろう。逆に、社会問題を提起する、ジャーナリスティックなアプローチであるならば、たとえば藤原新也のルポルタージュのように、整形を受ける女性一人一人の肖像、個別の心の明暗やドラマをより鮮明に描き出す必要があっただろう。

アカデミックな論文とジャーナリスティックなライターの間のどのへんに自らを位置づけ、活動を続けてゆくのか、方法論的明確化が、今後の著者の活動では問われることになるだろう。

最終的には、副作用やリバウンドといった整形手術を受ける身体的リスクや、整形後の周囲の変化、自分の内面の葛藤とどう向かい合うかは本人の自己責任の問題となる。本書は、これから整形手術を受けることを検討している人やすでに受けた人、自分の恋人や友人が整形を受けたり受けようとしている人にとって、考える材料を包括的に提供してくれる著作である。

関連ページ:
北条かや『キャバ嬢の社会学』
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