つぶやきコミューン

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茂木健一郎『東京藝大物語』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.01


茂木健一郎『東京藝大物語』
(講談社)は、2002年から2007年の五年間にわたり東京藝大に非常勤講師として勤務した著者の経験をもとにした青春小説である。

上野駅の公園口を出ると、正面にあるのは東京文化会館である。そこから右手に国立西洋美術館を見ながらさらに進むと、大噴水のある国立博物館の先に、東京藝術大学がある。

 最後の直線道路を進むと、両側に東京藝術大学のキャンパスが広がる。上野公園を背にして、向かって左側が「美校」(美術学校)、右側が「音校」(音楽学校)。p6

上野公園には何十度となく足を踏み入れたが、この場所でどんな青春が展開していたかについて、私はほとんどは知らなかった。

驚いたのは、かつての旧制高校のような、あるいは学園紛争時代のような、いささか古風な、それでいてハチャメチャな青春の過ごし方が健在であったことである。暴走する彼らの姿を見守る語り手のまなざしも、どこかしらおっかなびっくりで、今のどんな場所でも爆発を恐れない堂々たる茂木健一郎とはちょっと違う。学生たちを前に、「若者よ!偶有性の海に飛び込め!」とアジるわけではない。

『東京藝大物語』の中心になるのは数名の、実在の学生たち(当時)である。鼻水のコレクションに異様な執念を持ち続けるジャガーこと植田工(うえだたくみ)、鳩のように首を動かすハト沼こと蓮沼、突如狂ったようにパフォーマンスを繰り広げ、最後まで学園生活に波乱をもたらし続ける杉ちゃんこと、杉原信幸

きっと語り手もまた、この失われた時間の中で、学生たちへの共感とともに青春時代を再体験しながら、加速していったにちがいないのである。

ミラーニューロンのはたらきは、学生に教師の知識や知恵を授けるが、教師には、映し鏡として学生の若さや活力を与えてくれる。この世の中に竜宮城というものがあるとすれば、それは教師にとっての、自由な校風の学校であるだろう。タイやヒラメの舞い踊りを目にする中で、青春のイメージを反芻するうちに、教師という立場を離れると自分が突然年老いていることに気がつくのである。

言うまでもなく教師が学生時代に過ごした青春と、目の前の学生たちの青春は違う。東京大学の青春と東京藝大の青春を比べれば、東京藝大の方がずっと自由奔放で、のびやかであっただろう。この中に登場する学生たちの姿も、破天荒であるし、若者たちのエネルギーを受けて立つ、東芋(たばいも)、福武總一郎、大竹伸朗ら講師たちの姿も、有無を言わさぬ迫力がある。

同時にその自由で特権的な体験が、永遠に続くわけでもないアートの世界の厳しさも私たちは知る。

 難関の東京藝術大学に見事合格した彼ら。「偏差値」や「新卒一括採用」といった、日本の抑圧的システムとは無縁の、自由な芸術の楽園に逃げ込んだ、と思っている。しかし、実際には、日本の厳しい現実は、珊瑚礁の中で悠々と泳ぐ色とりどりの魚たる彼らの耳にも、外洋の荒々しい波の音のように、ズドーン、ズドーンと届いている。世間の圧力は、遅かれ早かれ「就職活動」という荒波となって、芸術の楽園の中に流れ込んでくるのだ!p58

一般人の価値観から言えば、自ら変人や変態の域に踏み入れながら、懸命に作品に取り組む一方で、愛をはぐくみ続ける学生たちを見つめる語り手のまなざしは優しく、切ない。

この小説の最大の弱点は、学生たちに焦点を合わそうとしすぎるあまり、語り手の姿が透明で不可視になった部分ではなかろうか。日本語ならでは主語の省略が多用され、「私」「僕」、「俺」といった一人称代名詞が、語り手の地の分からは消失してしまい、疑似的な三人称小説になってしまっているのである。

しかし、不確定性原理が示すように、完全に観察される対象から独立したニュートラルな観察者などこの世には決して存在しない。

非常勤講師茂木健一郎は、よい意味でも悪い意味でも、東京藝大生たちの生活に干渉し、あるいはひょっとしたら彼らの人生を救済したのかもしれないし、狂わせたのかもしれない。

『東京藝大物語』は、誇張やエピソードの編集はあるかもしれないが、北杜夫の『ドクトルマンボウ青春記』のような回想記的エッセイの世界に属する作品であると思う。小説であるためには、もう一歩語る主体を異化し、夏目漱石の『坊ちゃん』における「俺」のように、一つの印象的なキャラクターとして過去の自分を描く必要があったように思われる。

というのも、「賢いホームレス」(有吉弘行)茂木健一郎ほど、客観的なまなざしをもってとらえれば面白い存在はないからであり、それはふだんのツイートからもうかがえる。もじゃもじゃの髪を自分で切り、たった一つしか持ってないズボンやパンツをホテルで洗いながらグローバルノマドな生活を送っている。新たに出かける場所まで、5キロでも10キロでも平然と歩き、見知らぬ街でも朝になるとジョギングする。偶有性の海に飛び込めを地で行く毎日である。だから、語りがどの登場人物にも属さない三人称の小説や、この作品の事実上の主人公である植田工の視点から一人称で描けば、もっと面白くなっていたかもしれない。

青春の記録は、どの人にとっても、不可逆過程な何かであり、それゆえの哀切な響きを持っている。

 ふと、ジャガーに言いたくなった。
「あのさ、こういう時間が、ずっとあると思っているだろう。もう、ないぜ。この時間は、二度と戻ってこないんだ。」
「へいっ。」
「居場所というのはさ、ある時は当たり前だけれども、失われるのは、あっという間だからなあ。」
「へいっ。」
「水たまりは、やがて干上がる。日だまりは、つかの間の輝き。」
「へいっ。」
「だから、この光景を、よく覚えておこうな。」
「へいっ。」

p166

不思議なもので、別の時間を語る他人の青春の記録は、同じような気持ちで過ごした、私たちの異なる青春の時間を想起させる。その記憶の断片は、甘酸っぱかったり、ほろ苦かったりする気持ちの無数の水泡となって私たちの心を漂い、しばらくの間幸せにしてくれる。

『東京藝大物語』
は、そんな物語である。

関連ページ:
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