つぶやきコミューン

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五十嵐泰正・開沼博編『常磐線中心主義』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略  ver.1.02

  近代通勤路線、長距離路線、そのいずれの顔も、ことさらに語られてこなかった常磐線。しかしそれは、この沿線の地域が、単に通過される経路となるだけの不毛の地であったことを意味しているわけでは、決してない。それどころか、この常磐線沿線の地域こそが、東京と日本の近代を支えてきたといっても過言ではないのだ。(五十嵐泰正:序章 寡黙で優秀な東京の下半身、p11)

 「常磐」とは日常の土台そのもの。自らの日常を問い直し、生活の足下を見つめ直したとき、「常磐」はあなたの目の前にたちどころに現れる。
(小松理虔:第四章 泉駅pp204-205)

   常磐線を通して他の線路よりも語りえることがあるのだとすれば、それは「語られてこなかったこと」だ。
(開沼博:終章「語られなかったこと」が示すもの、p289)


開沼博五十嵐泰正責任編集『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)(河出書房新社)は、南は上野から北は富岡まで、常磐線に沿って北上する形で、8人の論考を収めたものである。年間数百冊は読破する中でも、この本ほど濃厚なメッセージが込められ、魅力的な目次を持った本は他に類を見ない。

常磐線中心主義

ページの上には左端の上野から右端の仙台まで常磐線沿線の地図が描かれ、竜田から原ノ町、相馬から浜吉田の不通の区間は破線で描かれている。そしてページの下には章題が右から左へと並ぶが、すべて駅名になっている。第6章は不通区間に含まれる富岡駅で終わり、それより先の駅が登場することはない。ひとを考えさせずにはおかない、この目次の見事さだけで、この本は買う価値がある。

24年間常磐線を中心に生活してきた。但し、日常的に使うのは上野から取手駅の区間であった。たまに仕事や余暇の目的で、土浦や水戸まで足を伸ばすことはあったが、それより先に足を伸ばすことはなかった。仙台や石巻の親類に足を伸ばす時には、東北新幹線を使ったので、水戸から北の常磐線はまるで縁のない鉄道であった。

一口に常磐線と言っても、実はよく知った区間と、たまに使う区間、そしてまるで足を踏み入れたことのない区間、この三つがあるのは、私だけではないだろう。常磐線と生活圏が重なる多くの関東在住者にとっても、常磐線は、いくつかの異質の層からなっているのだ。

『常磐線中心主義』が目指すのも、この異なる歴史や産業や文化を持った駅中心のエリアが形成する層を輪切りにしながら、異質性を異質性のまま描き出すことであるだろう。

2011年に東日本大震災では、さらに常磐線が地震と津波の影響で切断した。そして、その切断を切断のままにとどめる形で、本書はまとめられているのである。

第一章上野駅では、「北の玄関口」のターミナルでありながら、高層化されることもなく、街との一体性を重視した存在であり続けた上野駅の特異性を五十嵐泰正が描く。続くコラムの南千住駅では、「あしたのジョー」に描かれたような山谷のドヤ街から大規模再開発の波とともに福祉のまちへと、さらには外国人観光客の人気スポットへと移り変わる変貌ぶりを稲田七海が描き出す。

第二章柏駅では、福島から遠く離れた東京のベッドタウンでありながら、福島第一原発事故によりホットスポットとなり、住民がネットワークを形成しながら除染対策へと立ち上がった経緯を中心に五十嵐泰正が論じる。さらに安藤光義のコラムでは、茨城県という首都圏へ出荷する巨大な農業地帯としての特異性を、県北・県南・県西・鹿行の四つに分けながら取り上げる。

第三章水戸駅では、県都でありながらも中心街の空洞化が進む水戸での、ストリートダンス「ロックンロール」のローカルなサブカルチャーとしての変遷を大山昌彦が論じ、さらにコラムではそれとは異なる視点から、「水戸黄門」など水戸の歴史的コンテキスト活用課題を沼田誠が論じる。そしてもう一つのコラムでは、停滞に悩むかつての企業城下町日立の今日的課題を帯刀治が論じる。

第四章泉駅では、震災をきっかけにいわき市の水産会社に転職することになった小名浜生まれの理虔が福一原発事故とともに壁にぶつかった蒲鉾会社のサバイバルへの苦闘を内側から描く。それまで淡々としていた記述が一気にドラマティックになるのもこの章からである。コラムのいわき駅では、震災を機に常磐線沿いのラッパーが結集したアルバム『常磐DOPE』を、同じく小松理虔が取り上げる。

第五章内郷駅では盆踊りの目玉となっている日本一の回転やぐらの誕生とその60年間の変遷の歴史から、
炭鉱とともに繁栄の場所であった地域の特異性を開沼博が掘り下げる。『フラガール』の湯本は観光によって生き残りをはかったが、内郷がとったのはベッドタウン化の道であった。さらに第六章では津波によって大きく破壊され、未だ常磐線再開通のめどが立たない富岡駅周辺の地理的・歴史的特殊性を開沼が分析しながら、復興の道を見出そうとする。

沿線の地層学ともいうべき『常磐線中心主義』は、最後に忍び込む暴力的な鉄道の切断によって、21世紀の日本の経済や技術力をもってしても容易でない東北の復興の困難性を物語る。おそらくはその傷を生々しく語るためにこそ、本書は書かれたのであろう。

もちろん『常磐線中心主義』は、常磐線のすべてを語ることはない。無数のフォークロアがその間の余白に、あるいは、同じ層の上下に書かれるべきものとして存在することだろう。本書がめざすのは、車中心社会であえて「鉄道が通ることによってそこに生まれた物語」の見直しという、問題意識の座標軸の形成である。そういった意味で、本書はいつもすでに追記されるべき開かれた書物として存在しているのである。
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