椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』
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1993年の世田谷美術館での展覧会を境に、日本でも「アウトサイダー・アート」という言葉がしばしば用いられるようになっている。具体的には「公的評価を持たない無名者や犯罪者、精神病患者や幻視者たち」による絵画その他の作品群を暗示するが、その定義はと言えば、
「公認」の美術教育を受けていない「素人」による美術、せんじつめれば独学による美術、ということになるだろう。p16
アウトサイダー・アートは当然、国家やその他の権威による公認の美術であるインサイダー・アートの対概念である。アウトサイダー・アート以外にも、同じ対象を指すのに用いられるのが、アール・ブリュット(生の芸術)であるが、「生」「無垢」「純粋」のニュアンスはあっても、「悪」「外道」「異端」のような負のニュアンスがない分、体制によって回収されやすい言葉である。このような理由で、本書では一貫してアウトサイダー・アートという言葉が用いられている。
アウトサイダー・アートは、原理的にいって社会的弱者のみならず、ときと場所によっては反社会的な存在にまで開かれていなければならないし、そのことを知らせること自体にも、芸術という営みにとってきわめて大きな啓発的意味がある。アウトサイダー・アートのみならず、芸術とは根源的には善悪の彼岸に置かれているはずだからである。p28
このような視点のもと、椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)がまず取り上げるのは、人知らず途方もない作業がいつしか始められ、長い歳月の後にその価値を認められるに至った三つの例、拾った石を積み上げるうちにとてつもない進化を遂げたフェルディナン・シュヴァルの理想宮、サイモン・ロディアがたった一人で築き上げた30mのワッツ・タワー、そして膨大な絵と小説を残したヘンリー・ダーガーである。(第1章 老人たちの内なる城)
こうした例は海外にとどまらない。第2章の極限に置かれた者たちでは、関東大震災後、「二笑亭」という奇妙な住宅を作り続けた渡辺金蔵、一郵便局長でありながら火山学者として名をなし、その情熱ゆえに傑出した火山画を残し、手塚治虫も作品化した三松正夫、そして宗教界のアウトサイダーとして膨大な芸術作品を残すこととなった出口なお、出口王仁三郎を取り上げる。国家にとって不都合である理由で、本来一つであった芸術と宗教は分離され、今日に至るまで国内では十分な評価がなされていないと著者は分析する。
さらに第3章の権威からの逸脱では、六本木ヒルズにもある蜘蛛の彫刻「ママン」を残したルイーズ・ブルジョワ、あらゆる作品に白いタイルを使い、自らの家の隅々までタイル張りにした上で破壊したジャン=ピエール・レイノー、そして若くして才能を認められながらも時流に乗れず、中央の画壇に背を向け、奄美大島に渡り、一人絵を描き続けた「日本のゴーギャン」田中一村を扱う。彼らを、そこまで駆り立てたものは一体何だったのか、内面のドラマを椹木は、鮮やかに描き出す。
そして、終章の山下清と八幡学園のこどもたちでは、八幡学園という居所を見つけるまでの山下清の紆余曲折に満ちた生活の日々と他の才能ある子供を輩出した八幡学園の価値を再評価する。
芸術は、それが権威に背を向けた場合にはなおさらだが、人の評価を受けないままに消えてしまう可能性がある。今日「アウトサイダー・アート」とされるものも、誰か認める人間がそばにいて作品を残すか、それが不可能な場合でも記録に残したがゆえに、人々に知られるようになったのであり、キュレーターであるこの紹介者の存在抜きには語ることができない。
「アウトサイダー・アート」は公的なコンテキストの共有を行うことなく、社会からの孤絶の中で人知れず創造され続けた、孤独者の芸術であり、彼らを駆り立てるのは生い立ちのトラウマであったり、愛する人々を次つぎに失った悲しみ、喪失感であったりする。その悲劇的な運命を直観するがゆえに、私たちは彼らの作品の前で言葉を失い、作品の世界深くへと沈潜することを強いられるのである。
シュヴァルの理想宮やヘンリーダーガーの絵など、今日ではあちこちで紹介されているものも含まれるが、本書は、世界の、そして日本の知られざる才能たちの人生のドラマと謎めいた、ときに狂気と紙一重の創造のプロセスへと引き込まずにはおかない熱い入門書なのである。