つぶやきコミューン

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田中圭一『神罰 1.1』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略


最高にして最低の呼び声高い田中圭の集大成的作品、『神罰 1.1 田中圭一最低漫画集(イースト・プレス)を読んでみた。

田中圭一は、パロディ的作風で知られる漫画家である。『神罰 1.1』に登場する作風は、漫画の神様手塚治虫をベーシックに、永井豪(「魔狩人」)、藤子不二雄(「りる☆ドラゴン」)、福本信行(「歌留多勝負師トクラ」)、本宮ひろ志(「愛のイき先」)、西原理恵子(「ジャングル小帝」)、宮崎駿(「見たか!!少女の戦車隊」「ミサコの泉」「ミサコの泉ふたたび」)と七変化。その他、小ネタとして「宇宙戦艦ヤマト」やらアメコミ風キャラも顔を見せる。

田中圭一の天才は、単にキャラクターデザインを真似るだけでなく、タッチやコマ割りの空気感まで模倣してしまうことにあり、台詞を隠せば手塚の作品の一部と言っても、9割の読者が気づかないであろうコマも多々ある。多忙な漫画家が自分のアシスタント上がりの漫画家に、同じシリーズのスピンオフを描かせたりすることは多いが、そのレベルをはるかに凌駕してしまうから始末に悪い。

『神罰 1.1』に収められた作品は、ほとんどが下ネタ系である。とりあえず大家そっくりのキャラをまんま登場させながら(再構築)、瞬間芸のネタで落とす(脱構築する)のがほとんどで、あまり笑いは長続きしない。最低と評されるのは、大家のキャラクターを下劣な世界に落とし込むからではなく、そこに壮大な世界観を構築したり、ストーリー展開にまで至る漫画の王道的要素が希薄だからである。

しかし、それでも、私たちは笑い、脱力せずにはいられない。

それは、あたかもテレビドラマや映画でシリアスな演技を見せていたスターの日常に接し、オナラをしたり、トイレに入って用をたすその音までが聞こえて、ああやはり同じ人間なのだと知ってほっとする時の気持ちに似ている。

田中圭一は、キャラクターの描かれざる部分、ポテンシャル(潜在性)を引き出すのである。

田中圭一が描こうと描くまいと、手塚治虫の作品はエロスに満ちているし、少年誌で原作で奇跡のコマに接したときの衝撃は、田中圭一の比ではなかった。正面からのエロスにおいて、手塚治虫に勝てないことを知っているがゆえのお下劣戦略なのだ。

他人の漫画家の創造したキャラクターを真似ることに情熱を傾けるあまり、自らの作り出したキャラクターを大事に育ててゆかないのが、田中圭一の弱点かもしれない。

ほとんどの男女が美形キャラでありながら、全身が性器の姿や性戯に使われるグッズや動物の姿をしている「局部くん」は、学園ラブコメ特有のマンネリズムのまま、何十回でも何百回でも見ていたいと思う傑作である。

藤子不二雄的なキャラクターと作品世界をまるごとコピーした「りる☆ドラゴン」も一回で消尽させることなく、もっと広げ、続けてほしい作品の一つだ。小学生の時代に、見当はずれなセックスの想像に思いを巡らせたのは、誰もが経験のある懐かしい思い出である。そうした無邪気なエロスを表現するのに、藤子不二雄タッチの絵ほどふさわしいものはない。

永井豪の「デビルマン」のパロディの「魔狩人」は、まんま永井豪の世界だが、原作に比べてエロさも、残酷さも不足していて、まっとうな作品の印象さえ与えてしまう。これも、繰り返し描くことで、独自の世界まで昇華してほしい作品である。

有名作家のパロディ的な作品には、それなりのリスクがともなうが、田中圭一の人徳なのか、殺伐とした訴訟バトルには至らず、多くの大家やその家族との良好な関係を築いて、何とか黙認の世界へと持ち込めている現在、パロディの世界でもさらなる未知の世界の冒険へと歩み出すことが期待される。

有名漫画家の子弟を訪ねる『田中圭一のペンと箸―漫画家の好物』は、ハートフルな漫画家、田中圭一の才能がいかんなく発揮され新境地を開いた傑作であるが、まともな作品だけ描いたのでは、田中圭一は田中圭一ではなくなってしまう。それは、AV上がりの女優が、一般映画でも演技力を認められ、いつのまにかお茶の間の顔になり脱がなくなり、CMの常連から文化人顔をしたコメンテーターへとスライドするような寂しさを感じてしまうだろう。

『神罰1.1』『神罰』に比べて、複数の作品で作画のレベルアップがなされているが、「歌留多勝負師トクラ」の描写には発展途上の部分も感じる。大体、本宮ひろ志風のキャラが男性しか登場せず、美形の女性が登場しないのはどういうわけや?とツッコミをいれたくなるのも私だけではないだろう。

「ディズニー部分」「愛のイき先」には、神様が降臨したとしか思えないページや、一コマがある。そういう時には、生きた手塚治虫に再会したような喜びを、偽物と知りながらも、感じ、感動せずにはいられない。

手塚治虫が生きていたら、田中圭一をどう思うかは誰もが知りたい疑問であろう。

しかし、まさに田中圭一のような人物を手塚は造形し、描いている。『七色いんこ』がそれだ。七色いんこは、あらゆる人物の声や仕草を真似ることが可能な天才的舞台役者にして、泥棒である。

七色いんこの二つの属性、他人のモノを盗むこと、他人の個性を盗むこと。そこに共通してあるのは、アイデンティティークライシスの問題である。

七色いんこは、他者志向が強すぎて、自らの中心に確信の持てない人間のドラマである。
彼を前にして、ベテランの俳優は
ースタニスラフスキー・システムから勉強したまえ。
と言う。

これは果たして手塚治虫の声だったのか。
『七色いんこ』自体、様々な文学の名作のパロディ的性格を持った作品である。
むしろ手塚自身が自らのうちに七色いんこ的なものを感じ、常に様々な世界を貪欲に取り込もうとしていたがゆえの自戒の声だったであろう。

手塚治虫は、田中圭一を百パーセント理解したはずである。あるいはその未知の可能性を含めて、200パーセント理解したかもしれない。

さらなる可能性が何なのか、それを見つけるために、田中圭一は、生ける大家、死せる巨匠、彼らのキャラクターたちと対話しながら、今日も描き続ける。

参照サイト:
『Crossroad』 vol.2 田中圭一×手塚るみ子
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