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國分功一郎『近代政治哲学』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 ver.2.01   文中敬称略 



1.近代政治哲学の思考されざるもの

國分功一郎『近代政治哲学 ー自然・主権・行政』(ちくま新書)は、見かけは近代の政治哲学の入門書のように見える。第一章の、一般にはあまりなじみのないジョン・ボダンという例外を除くと、続く6つの章は、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントといった高校の世界史の教科書にも出て来るビッグネームの哲学者に関する記述からなっている。

イギリス、ドイツ、フランス、あるいはオランダ等のヨーロッパ諸国で成立した近代政治哲学は、そのままヨーロッパとその流れを組むアメリカや、西欧の民主主義を輸入した日本を含む世界の多くの国々の政治システムと直結している。しかし、政治哲学と実際の政治システムの間には、しだいに大きな乖離が生じているように思われる。思想的には、政治哲学の建前に相当するものが守り抜かれる一方で、実際の政治システムはその記述の網の目から逃れるものが一層優勢になっているのである。この考えられざるものを、政治哲学が発展するプロセスの中で、反省的、批判的に思考すること、これこそ國分功一郎が本書の中で試みるものであるだろう。

近代政治哲学の内容はきわめて広範にわたるが、ここで取り上げられた問題はきわめて限定的である。私たちが現在の民主主義という擬制のもとで生きる中で、浮かび上がってくる問題意識に照らして、近代政治哲学の成立・発展のプロセスを思考し直すことに本書の狙いは集中している。目の前の様々な状況は、もはや旧来の民主主義のモデルが、有効ではない、つまりうまく機能していないということを、一種の不法侵入、暴力として、私たちに考えることを強制する。民主主義を、現実において、うまく機能させるためには、その基盤となる政治哲学そのものを再考し、アップデートすることが必要不可避である。その時、政治哲学は社会の政治システムに対して、矯正規則として機能することが可能となる。

いかなる状況が、著者に対して、近代政治哲学の批判的読解を強制しているかは、本書の中では明示的に言及されてはいないが、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題や大竹弘二との対談『統治新論』のように、かなり明示的に示されている書物もある。小平市の都道328号線における問題や、沖縄における辺野古基地移転問題が本書の中で明示的に言及されていないのは、それらが典型的な例であっても、問題は他の至る所で、つねにすでに生じていることだからである。政治哲学の一般的な記述をアクチュアルな問題へと直結させることは、かえってその視野を狭め、射程を縮小することにつながりかねない。おそらくはそうした理由で、他の著作においては、自らに許容しているジャーナリスティックな記述を、本書の中では、著者は控えていると思われる。

近代政治哲学を支配しているのは、一種の立法中心主義である。実際には、行政の裁量事項が増大しているにも関わらず、民主主義は議会へと代表を送ることによって、国民の主権が代表されきっているかのように語られてきたのである。国民や住民が、行政に関わることのできる機会は、立法のそれに対して、きわめて限定的であり、あたかも行政に主権が移譲され、国民もしくは住民が、それに触れることのできない不可侵のエリアが形成されているかのように、物事は進行しているのである。

 本書の中で、國分功一郎が批判的に思考しようとするのは、この立法中心主義であり、近代政治哲学の考えられざるものとは、立法中心主義の擬制のもとで不可視となってしまった、主権者と行政との関係、あるいは関係性の不在なのである。


2.主権概念の変容史

以上のような問題意識は、すでに『来るべき民主主義』 中で提示されているものであり、著者にとって新しいものではない。それゆえ、本書の構成の意味するものは、立法中心主義の思想の考え方がいかに根強いものであり、近代政治哲学の中でどのように主権者と行政との関係を思考することが回避され続けてきたのか、さらには別のかたちで思考することを可能にする萌芽がなかったのかを、より詳細に見てゆくことで、政治と民主主義を視野におく思考をより明確にし、現実を変えるヒントを発見することにあるだろう。

『近代社会哲学』の中核をなすのは、主権概念の変容の歴史である。

以下は各章ごとの超訳である。議論の大まかな流れを押さえてはいるが、ディテールにとことん忠実なわけではない。これからの読者には圧縮しすぎて半分意味不明なトレイラー(予告編)、すでに読んだ人には、全体の流れを再考する地図として機能するであろう。

第一章で登場するジョン・ボダンはフランスの公法学者で、彼はその著作『国家六論』の中で、それまで不安定であった君主の権力や地位を基礎づけるために、主権の概念を持ち出した人物である。ユグノー戦争の凄惨さに接し、それまでの穏健な考え方を捨てたボダンは、社会には秩序が必要で、強力な君主制こそ唯一可能な手段と考えた。ボダンの新しさは、主権の概念を、それまでの司法ではなく、立法権の立場から考え、この概念を創出したことにある。ここで登場した主権の概念は、それ以前の国家から近代国家を截然と区別するものであり、歴史とともに文脈を変えながらも、それ以後一度も疑われることなく用いられてきたのであった。

 主権は対外的には自立性の主張であり、対内的には超越性の主張である。具体的には戦争の権利として、そしてまた立法の権利として行使される。これを初めて理論化したボダンは、何よりも国内秩序の安定のためにこの概念を創造したのであり、その意味では立法権としての主権にこそ、この概念の本質があると言えよう。p41


第二章では『リヴァイアサン』の著者、トマス・ホッブスの自然権の概念を取り上げる。一般には社会契約論で知られるホッブスだが、何よりも自然状態に関する理論こそがホッブスをホッブスたらしめるものである。自然状態において、人は自分の思い通りに振る舞う自由がある。しかし、同時に人の能力に大差はなく、能力の平等は希望の平等をもたらし、それは不平等がある時、互いに妬みの感情を抱くなど相互不信が常態化してしまう。こうして、自らの平和と安寧を望む自然状態は戦争状態に至り、自己矛盾が生じてしまう。それを解消するためには、自然権の放棄、権力の譲渡が必要で、それこそが社会契約である。その譲渡先である一人の人間、もしくは合議体をホッブスはコモン‐ウェルスと呼んだ。ホッブスは、コモン‐ウェルスを<設立によるコモン‐ウェルス>と、<獲得によるコモン‐ウェルス>に分けたが、実は前者は既成事実化した後者を正当化する方便にすぎない。後者のコモン‐ウェルスは、自然状態で生成する国家を意味し、自然状態の克服を前提としていない。つまり自然状態の解消にはなっていないという矛盾が生じる。


  こうやって考えてくると、ホッブスの自然状態論は、さらにいっそうリアリティを増す。というのも、建国神話が国内で吹聴され、国と国とはにらみ合いのまま、相対的な安定状態という「平和」の中にあるというのは、まさしく我々が生きている世界に他ならないからである。
 簡単な話だ。国際社会とは常にホッブス的な自然状態に他ならない。国々を上から統括する権力は存在しない(国連や国際法は、警察や国内法と同じようには機能しない。前者には実効的な強制力が存在しないからである)。だから、いつでも相互不信の状態にある。外交などを行って、そのにらみ合いが戦闘へと発展しないように工夫しているだけで、いつでも戦争は起こりうるし、起こっている。
P61


ホッブスは、ある意味で、正直な哲学者であり、単なる社会契約の建前論に終始することなく、人間の欲望のリアルを見つめ、その理論に反映した人であった。それは主権の中に、戦争の権利のみならず、世論統制の権利(イデオロギー統制の権利)包含していることにも窺える。「統治なるものが抱いている根源的な欲望」を、ありのままに描き出したところにホッブスの今日性がある。


第三章
では、スピノザの政治哲学の中に、ホッブスの取りこぼしを拾い上げる。スピノザは、ホッブスの概念をホッブスよりも上手に処理することができた。スピノザにおいて、自然権は自由ではなく、法則や規則として規定される。ホッブスの概念が逆転されているかのように見えるが、魚が水中での生活に最適化されているように、自由の行使は完全な自由ではなく、自然界の様々な固有の条件を伴うことより、スピノザは自然権をこうとらえるのである。


 スピノザは、自然権とは自然によって各々の個物に与えられた自然の規則ないしは法則そのもののことだと言うのである。P76


ホッブスよりもリアルで、具体的な思考の持ち主であるスピノザは、魚や人間の自然権を、固有の具体的な力の行使として考える。恐怖による約束が義務的であるというホッブスに対して、スピノザは逃げてしまえばよいとの解決策を提示し、ホッブスの理論を結果的に無効化する。ホッブスの自然権の放棄に関しても同様である。スピノザは国家において自然権は放棄されず、人々は適度に自制しながら生きると考える。さらに社会契約に関しても、一回きりの行為ではなく、その度に反復、再確認されるものであるとする(反復的契約論)。スピノザは国家のみならず、民衆に対しても警戒を怠らなかった。民衆は恐怖や不安から隷従へと向かいがちである。いかにしてこの隷従より解放され、真の自由を獲得することが可能かが、彼の大きな主題であった。スピノザは、民主制のみならず、貴族制や君主制について考察したが、どの場合も国家の最高権力は「多数者」の自然権に基づくという考えを持っていた。臣民が隷属へと走り権力が集中すると統治はうまく機能しなくなる。国家の統治は、臣民の自由の上に築かれるべきなのである。国家による主権の侵害を、いかにして制約すべきか。スピノザは、「あらゆる自然に普遍の規則」に国家も拘束されると考える。そこにまだ成立していなかった立憲主義の萌芽を読み取ることができるだろう。


第四章
では、ジョン・ロックの政治哲学を取り上げるが、ロックは過大評価された哲学者であると著者は考える。残念なことに、その政治哲学は根拠を欠いている。根拠なき主張は哲学にはならないのだ。自然状態に関しても、
「自由の状態ではあるが、放縦の状態ではない」と書きながらその根拠を提示できていない。ロックは「〜すべき」と書くが、その根拠は提示できない。それは何らかの権威を密輸入しているからで、その「自然状態」はまがいものなのだ。ロックは時代のニーズに応える言説を生み出すことにとらわれ、根拠に考えが及ばなかったが、その言説は、とりわけ主権の概念に関して、後世に大きな影響を与えた。ロックは最高の主権は立法権と同一視する記述を繰り返す。そして行政権は立法権に従属するものと考えるのである。ところが実際には、多くの部分が行政の裁量に委ねられる。「立法府は共同体にとって有益な要な一切のことを、あらかじめ予見し、法で規定することはできない」と述べたロックは将来の問題を正しく予見していたのであった。ロックの記述を見ると、国家の主権の大部分を行政へと委ねているように見える。にもかかわらず、立法府こそ最高権力という建前論を繰り返す。だが、それに納まらない部分が『市民政府論』には存在する。それは国家が盗人と同じ行為を行いながら、処罰されず、逆に称揚されるような場合、その当事者となった場合の緊急避難、「抵抗権」に関わる部分である。ロックはそこで抵抗権を認めたとする考えがあるが、抵抗権は自然状態の自然権としても、国家内の権利としても認める対象にはなりえないので矛盾した考え方である。むしろ、ロックはそのとき自然権行使の自制が解かれると述べたと理解すべきなのだ。

 自然権は誰かによって認められるものではない。然るべき時に発揮されるものだ。P132 


第五章
では近代政治哲学を完成したジャン・ジャック・ルソーを取り上げる。ルソーは自然状態論、社会契約論、主権論の三つの柱を整備し、今日多くの国家で採用されている民主主義を基礎づけることとなった。ルソーの自然状態は、心穏やかで平和な状態であり、「万人の万人に対する闘争」とするホッブスの考え方とは正反対である。しかし、それはルソーが性善説の立場をとっているためではない。自然状態において、人は邪悪になる必要がないのである。ルソーによれば、ホッブスはすでに社会化した状態を自然状態として考察しているということになる。ここでのルソーの自然状態は実際に存在したことのない、理論のためのフィクションであり、それゆえ移行の問題を扱う必要がない。ルソーの社会契約の概念は、人民が人民全体と契約するというものである。ここでルソーの最大の謎である「一般意志」の問題が出てくるのである。「一般意志はつねに正しく、つねに公の利益を目指す」と書くルソーは、法律を一般意志の実現と見なす。一般意志から個別な対象に対する判断を引き出すことはできない。憲法も一般意志の体現と見なすことができるが、ある意味立憲主義は民主主義と対立する概念である。

 近代国家は民主主義的な下からの力だけでなく、そこに立憲主義的な上からの監視を組み込み、両者のバランスをとることで成立している。ルソーの一般意志をめぐる諸々の規定がわかりにくいのは、そこに、これら下からの力と上からの監視という二つの要素が混ぜ合わさっているからではないだろうか。言い換えれば、ルソーは近代国家の――民主主義と立憲主義に立脚する――その後の姿を、正確に予見していたということではないだろうか。P160

 
一般意志の行使は主権の行使であり、ルソーはボダン以来の立法権として定義された主権を定式化した。法を適用、執行する政府は一般意志の実現ではないと考える。直接民主制と誤解されやすい定期的民会に関するルソーの主張は、一般意志の特殊意志に対する優位性の確認を求めるものであった。

 なぜそれを定期的に確認する必要があるのだろうか?立法権には限界があるからである。立法権として行使される一般意志は、個別な事例に対しては答えを出せない。だから、特殊な事例に関しては政府が判断を下さざるを得ないのである。しかし、それは政府の特殊意志であって一般意志ではない。にもかかわらず、政府は「与えられた権利だけしか用いていないように見せかけながら、実は権利を拡大」することがありうる。それを定期的な民会によって監視するのである。P165

 
このルソーのメッセージを私たちは十分に理解しただろうか。


第六章
では、ヒュームの経験主義哲学における主権概念を扱う。いったんルソーの社会契約論によって完成をみた近代政治哲学は、ヒュームによって容赦ない批判にさらされる。ヒュームの主張は端的に言えば、ホッブスやルソーの描くほど、人間はエゴイストではないということである。利己心を強調するロジックにより築かれた社会契約論の中で失われたものは何か。ヒュームは、人間を利己心ではなく、共感によって定義しようとする。しかし、この共感には偏りがある。より近いものへと強い共感はおよび、より遠いものには弱い共感しか及ばない。この偏りを矯正するには何らかの人為が必要であり、ヒュームはこれを「黙約
(convention)」に求める。黙約は、共感を拡張し、偏りをなくす。

  禁止が否定的なものであるとすれば、黙約は人に行為の方向を教えるという意味で積極的である。社会契約論は社会の起源に否定的なものを置き、ヒュームはそこに積極的ものを置く。P186


 
ヒュームにおいては、「自然状態」の概念もその効力を失う。というのも「自然状態」とは、様々な黙約が徐々に形成されるプロセスに他ならず、前社会的な未開の状態は、ヒュームの立場からはすでに社会的状態となってしまうからである。したがって、自然権なるものも存在しない。

 ヒュームの立場を分かりやすく言い換えれば、「自然状態には権利を認める権力がないのだから、当然、権利もない」というものになるだろう。p188


黙約は正義の概念を打ち立て、複数のルール、すなわち「一般規則」を形成する。その代表例が所有制度である。既存の制度には功利性や正当性があるように見えるが、一般規則は個別のケースに対する判断を下すことはできない。一般規則の適用を、ヒュームはそれが想像力のような、意外につまらないことで決まっている可能性を示唆する。

ヒュームの経験主義は、現状追認の思想であるどころか、むしろ社会形成の過程を大義名分から分離し、リアルに論じたことによって、変革の思想ともなっているのである。


第七章
では、社会契約の未来像まで論じたカントを取り上げる。カントの考えは進歩主義であり、それは自然が人間にある使命を強制するという点に現れる。人間は、理性に固有の目的、自然の目的には還元されない、「道徳的存在」としての目的、<文化の目的>の達成が強制されていると考えるのである。具体的には、法の支配の確立した社会の実現である。カントは一国内だけではなく、諸国間にも法の支配が及ばないと十分ではないと考えた。人間の寿命は短く、これを達成するには何世代もが必要であろう。そのような視点から説かれた『永遠の平和のために』の条項から、カントにおける社会契約の概念が検討される。カントにとって、社会契約は事実として前提されるものではなく、理性の純粋な理念であり、実効力のある概念として、その実在性を認めたのである。カントは政治体制を君主制、貴族制、民主制の三つに分け、さらに統治方式を専制的統治と共和的統治の二つに分けた。共和的統治は執行権(行政権)を立法権と区別するが、専制的統治は両者の区別がない。また、カントは民主制と共和制を両立不可能なものとした。

「言葉の元来の意味で民主制(Demokratie)と呼ばれる形態は、必然的に専制である。」p219


民主制の場合、執行権の行使に際しては、全員の賛成がないにもかかわらず、全員の賛成であるかのように決定が下されるからである。カントは民主制の欺瞞を、立法権にではなく執行権にあるとし、一般意志の自己矛盾をそこに認めたのである。

 民主制という体制は、それを「言葉の元来の意味」で理解する限り、あり得ない事態―全員が統治に関わっている―を想定しているだけでなく、その矛盾を覆い隠す仕組み―全員が統治に関わっていることにされてしまう―を内包してもいるということだ。P223

 
このようなカントの考えは、私たちが自明の価値と考えがちな民主主義そのものの、根本からの再考を私たちに促すのである。

現在の政治的混迷、そして世界における無秩序と戦争が支配する状態を導きの糸としながら、これらの近代政治哲学の古典を読み返す時、私たちが直面している問題への、根源的な問いがこれら先駆者によりすでになされていたことに読者は驚くことだろう。その先にどのような理論的、実践的な未来を見つけるのかは、私たち現在を生きる人類に残された課題である。

『近代政治哲学』
は一つは過去の方を見つめ、もう一つは現在と未来の方を見つめる、二つの顔を持った名著である。

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