つぶやきコミューン

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國分功一郎監修『哲子の部屋 哲学って、考えるって何? 』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 Ver.1.02



大学で哲学を学ぶときに行うのは、大体において過去の哲学者の言葉、考え方のおさらいのようなものである。Aという哲学者はA´という命題を述べ、それに対してBという哲学者はB´という命題を述べた。Cという哲学者はそれをさらに発展させて、C´という言葉を述べた。しかし、どんなに哲学者の伝記とその言葉を記憶してもそれは哲学にはならない。事実や言葉のコレクションは、哲学の歴史の最重要パーツではあるが、哲学そのものではない。

哲学とは何だろうか。何を哲学と呼ぶのか。

哲学の話をするのは難しい。特に、哲学を知らない人に対しては。

主体的に哲学を学ぼうとする人たちにはいくつかの暗黙の了解があり、それらを前提として話をすることができる。そうした場面において、哲学的なコンテキストそのものが問われることはほとんどない。

しかし、哲学と縁のなかった人に対して、哲学の話をしようとするなら、そうした暗黙の前提、コンテキストの共有がないところから話を始めなければならない。

しかし、その時こそ哲学の真価がまさに問われるのである。

なぜなら、哲学とは考える行為そのものへの問いであるからだ。

NHK Eテレで放映された番組を、本来の対話に忠実なロングバージョンとして再構成し直した『哲子の部屋 機‥学って、考えるって何?』(河出書房出版)で、哲学者國分功一郎が、俳優・ミュージシャンであるマキタスポーツと、新進気鋭の若手女優清水富美加を前に行おうとするのは、まさにそうした哲学とは何かという問いかけである。

哲学とは何かといわれ、清水富美加がまず連想するのは、考える人のイメージである。

しかし、フランスの哲学者ドゥルーズの言葉を用いながら、國分功一郎は人は考える存在というイメージを覆すことより始める。

國分功一郎が提出する第一のロゴス(言葉)とは次のようなものである。

「人は考えるのではなく、考えさせられる」

人は、果たして考えることを好む存在なのだろうか、人はいつも考えてばかりいる存在なのだろうか。

この探究の旅の前に、國分功一郎は、哲学の概念をより広い視野で見る行為によって、おさらいする。かつてープラトンやアリストテレスの時代にはー哲学はあらゆる学問の原点にあった。天文学や政治学にしても、その起源には哲学があり、そこからのれん分けして、様々な分野の学問が生まれたのである。

X軸、Y軸という座標軸の概念を発明した数学者でもあったデカルトや、無意識の概念を発見した精神医フロイトといった歴史的な重要人物の足跡をたどりながら、國分功一郎がドゥルーズとともに提示するのは、哲学とは新しい概念、すなわち物の見方をつくりだすことであるというものである。

 座標にせよ無意識にせよ、そうした新しい概念が出てくると、もはやそれ以前にはどうやって物事が考えられていたかを思い出せない、想像できないほどに、モノの見方や考え方が変わってしまいますね。哲学者というのは、そういう概念を作り出す人なのだ、と、このジル・ドゥルーズ大先生はおっしゃっているわけです。p35

そのドゥルーズが、二千年以上にわたる哲学の歴史の盲点をついたとは何か?

「思考と言う積極意志が、人類の中にあると想定するのは、哲学の犯す誤りである」p37

こうして、考える存在としての人間の実体を、「習慣」についての問い直すことより、國分功一郎は議論を深めようとするのである。その際、議論を具体的に深める上で用いられる映画が『恋はデジャ・ブ』という映画である。



この映画の中では、主人公は同じ時間を延々と繰り返すことになる。あたかも、桜坂洋の『All You Need is Kill』のキリヤ・ケイジがそうであるように、あるいは三部けいの『僕だけがいない街』の藤沼悟がそうであるように、少しずつ行動を変えることで、次に起こる不幸を回避しようとするのである。

そこで問われる「習慣」の本質とは何だろうか?

そう、それは人が考えなくてするようにする努力から生まれるものなのである。

國分功一郎の『ドゥルーズの哲学論理』を読んだ読者なら、あるいはドゥルーズ本人の『プルーストとシーニュ』をひもといたことのある読者なら、第一のロゴス「人は考えるのではなく、考えさせられる」という命題がどのようなものであるかその含意を知っているし、議論の先読みも可能であろう。

興味深いのは、結論そのものではなく、議論の方向をどのように向け、二人の対談相手をどのように、それまで考えなかったことへと案内してゆくかという手口そのものである。

デカルトのデの字も知らなず、肖像画を見せられてもベートーヴェンと大ボケをかました清水富美加、自ら多くの文章を書いているがゆえに議論をどんどんと先読みしてゆくマキタスポーツ、ボケとツッコミの双方を相手にする中では、想定外の話も出てきて脱線しそうになる。その話の支線を、本線へと何とかつなげようとする國分功一郎、このリゾーム的な過程にこそ、哲学の本質、教育の本質があるのではないだろうか。

『哲子の部屋 機は、哲学をこれから学ぼうとする人はもちろんのこと、すでに國分功一郎やドゥルーズの著作に接している人にも新鮮な驚きを与えてくれる。そして、とりわけ人に対して何かを教えるという立場に立つ人に、多くの気づきや発見を与えてくれる本なのである。

國分功一郎監修『哲子の部屋供/佑呂覆竺悗个覆い箸い韻覆い痢』へ続く)
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