水道橋博士『藝人春秋』は、時間とともに成長する本である。中に登場した芸人たちは成長し、齢を重ね、見え方が違ってくるのは当然だが、この本を読みながら成長した芸人がこの本の一部になっているということが、その遠近法を一層奥行きあるものにしている。
単行本の『藝人春秋』に関しては、二年ほど前にレビューを書いたことがあるが、この文春文庫版では、そこにはなかった二つのコンテンツが収録され、パワーアップされている。
一つは、文庫版ボーナストラックの「2013年の有吉弘行」であり、もう一つはオードリー、若林正恭による「解説」である。
二年前のレビューは、読後間もないファーストインプレッション特有の熱気があって、その熱量を上回るものは書けそうにないので、今はこの二つの文章に触れるにとどめよう。
「2013年の有吉弘行」は、タイトルに反して、ずっと前から、1994年、猿岩石のころからの有吉弘行の変貌ぶりをたどるクロニクルになっている。
1994年、猿岩石結成。二年後『進め!電波少年』が大ブームを引き起こし、1997年にはレコード大賞新人賞を受賞。いったん、アイドルとして漂白されてしまった有吉が、いかにして黒く染まり、芸人として大成するにいたったかを、ドキュメンタリー風にたどるのである。
その間も、有吉と博士の間には接点はない。直接の接点の少なさゆえに、最初はこの記事の執筆を断ろうとしたくらいだ。それでも、書かざるを得なかったのは、単行本版の『藝人春秋』の帯文を有吉からもらったせいである(ここでも本の外部が内部になっている)。テレビのオンエアや録画のチェックと周囲の声が数少ない頼りだ。しかし、ブレークする気配を博士は感じ取ってゆく。あたかも、映画『ジョーズ』において、姿を見せないホオジロザメの恐怖が観客を追い詰めてゆくように。
2004年あたり雌伏期間の有吉を、博士は次のように語る。
売れない芸人に纏い付く、こびりついて取れない負け犬臭は、たとえ短い一発屋であろうと栄光体験を勝ち得た瞬間、綺麗さっぱり剥がれ落ちる。
世に言う”芸能人オーラ”を仄かに残しているものである。
しかし、有吉くんは違った。どこで見かけても、陰のある卑屈な面持ちで、芸能界の片隅で苦々しそうに生きていた。そこにはアイドルとして売れていた頃の面影など微塵も無く、黒く淀み僻んだ視線だけが際立っていた。
pp395-396
しかし、仕事仲間を通じて、次々に舞い込む有吉評価の声。最初は高田文夫、次は林家正蔵、その声の中にブレイクを予感しながらも、まだ半信半疑であった水道橋博士。
芸人が大ブレークする前には、必ず予兆がある。
そして、実際に時代がシンクロし始めた。
有吉弘行は、実は毒舌芸人であり、「あだ名付け名人」だーーー2000年代中盤、業界にそんな潮流が生まれ、本人もその波に乗った。
この時世に「毒舌」という芸風がまかり通るか?しかも、かつて芸能村に住み、アイドルとしてチヤホヤされていた出戻りに……。p398
アイドル崩れの出戻り芸人。これがこの時点で有吉に拭いがたくまとわりついていた烙印だったのだ。
やがて2008年5月、ついに浅草キッドがパーソナリティをつとめる『全国おとな電話相談室』に、有吉弘行は登場する。その時は殊勝にも「もう二度と山頂に登らず、麓で遊べるだけでいいんです」と語った有吉だったが、それがダークな偽装であることは気づく由もなかった。
そしてその後も、有吉弘行は変貌を遂げながら、真っ黒な芸の世界へと身を染めてゆくのである。
オードリー若林正恭の「解説」は、単なる解説ではない。幼稚園のころにまで遡る、一お笑い芸人の私小説とでもいうべき内容だ。
親から誉められたいがゆえに塾に通い続けるボンボンとしての若林。
だが、成績は下から数えて五番という体たらく。
その中で、お小遣いをためてこっそり聞き続けるブルーハーツの音楽。
勉強が駄目ならと運動の世界で活躍を夢見て、部活でラグビーやアメフトに手を出すも、同じように壁にぶつかり、素行の悪いグループにまじるようになる。そこでも堂々とタイマンを張るわけでもなく、ご機嫌伺いのお調子者を演じる。そして、女の子にもモテない。
そんな時代をこんな一言で、若林は表現している。
世の中の一般的に評価されることのどれも手に入れることが出来なかった。p418
痛切すぎる一言である。しかし、その段落の最後にはこんな文章が来る。
ぼくはお笑い芸人になることを夢見た。p419
人生というパンドラの箱を開けて、最後に残った希望こそがお笑い芸人だったのだ。
外から、遠巻きにあこがれのまなざしで眺めていたお笑い芸人の世界へ、いつしか舞い込むようになった若林。
相方の春日ともども芸歴8年目を越えるころ、何と格闘技の登竜門であるK-1からお笑い界の登竜門であるM-1への華麗なる転戦の歴史があったのだ。そのK-1を見つめる浅草キッドの、水道橋博士の視線があった。
あこがれ続けた松本仁志やビートたけしの目の前で芸を披露するようになって気づくのが、自らの卑小さ、覚悟のなさ。やはり自分は彼らのような天才ではない。そんな想いを抱いて、水道橋博士の『藝人春秋』のページを、若林はめくり、いつしか強い共感を抱くようになってゆく…
この「解説」は、『藝人春秋』に魅せられ、そしてその文章が表現した「あの世」へといつしか迷い込むことになった一芸人の魂の記録、私小説であり、その内容は又吉直樹の『火花』にまさるとも劣らない。いや、最後の泣かせどころに関しては、こちらの方が上かもしれない。
しかし、単に泣かせるだけでなく、長く心に残るラスト三行を目にすることができるのは、この文庫本を読んだ者にのみ与えられる特権である。
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水道橋博士『藝人春秋』