つぶやきコミューン

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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(2)
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略



『暇と退屈の倫理学』(1)より続く

4.本来性なき疎外論


『暇と退屈の倫理学』第三章の「暇と退屈の経済史」の中では、余暇と退屈の問題に言及した多くの論者が登場する。

『有閑階級の理論』(1899)のヴェブレンは、暇であることがかつて高い価値を与えられていたと主張し、「顕示的閑暇」という概念を提示する。顕示的閑暇とは、力の象徴として暇であることを見せびらかすことである。
これを批判したのがアドルノで、ヴェブレンは額に汗して労働することのみが幸福をもたらし文化は浪費であると考えており、その理論は有閑階級に対する嫉妬に基づくとする。しかし、ヴェブレンの書物は同時に「品位あふれる閑暇」の伝統があったことも裏付ける。
大量生産を称賛するヴェブレンはウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動を批判する。モリスは文化や芸術こそが人々に幸福をもたらすと考えたからである。
資本主義文明が大嫌いなポール・ラファルグは、余暇を求めることが資本主義の外部に出ることであると考えた。しかし、これは幻想であり、むしろ資本主義は労働者に余暇を与えることで生産効率を高めようとする。それを実行したのがフォードであり、彼は労働者に賃金と余暇を与えながら自社の車を買わせるシステムを実現する。フォードに代表される労働の合理化は、産業家だけでなく、労働者も求めたものであるとグラムシは分析した。
資本主義は、さらに進んでレジャー産業というかたちで、人々の欲望さえも作り出す。
人々は、自分の欲求が何であるかを広告屋に教えてもらう必要があるとガルプレイスは述べた。『新しい階級』では、ガルプレイスは仕事こそが生きがいという人間を、「新しい階級」と呼んだ。
このように近代社会は、定住革命以降潜在的であった暇と退屈の問題を再活性化しただけであって、退屈は近代固有のものではないのである。

このような経路を経て、『暇と退屈の倫理学』は、第四章の「暇と退屈の疎外論」へと入るのである。

疎外論への導入部となるのが、ボードリヤールの言説に基づいた消費と浪費の違いである。浪費には限度があるが、消費には限度がない。ここでの消費とは、絶えず新しいラーメン店を食い歩いたり、話題となっているスマホやタブレットの新商品を買い求め続けるような行為である。なぜならそこで消費されるのは、物自体ではなく、物に付与された観念や意味であるからだ。

 浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出てきたを受け取っているのではない。これは前章で指摘したモデルチェンジの場合と同じである。なぜモデルチェンジすれば物が売れて、モデルチェンジしないと物が売れないのかと言えば、人がモデルそのものを見ていないからである。「チェンジした」という観念だけを消費しているからである。p153

消費社会において暇はないが、退屈はある。消費は絶えず不満を作り出し、人を次なる消費へと駆り立てるが、不満は解消されることがない。なぜなら消費は、消費者の都合ではなく、生産者の都合によってつくりだされるからである。物は無限にあり余るように見えて、実は限られたものしかない。自らの欲求にもとづき必要以上の物を買い求める浪費、贅沢とは異なり、欲求そのものが他者によって作り出された消費には選択の自由もなければ、生活の豊かさもない。

物のみならず、労働までもが消費の対象となりうる。周囲にアピールするための「忙しさ」「生き甲斐」という観念が労働とともに消費され、さらに消費は余暇の時間にまで及ぶ。生産的労働に拘束されていないこと、余暇を自由にできるということをアピールするために、余暇もまた消費されるのである。

 消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生むここには暇が入り込む余地がない。p168

このような消費社会がもたらす疎外は、一種の自己疎外である。

(…)消費社会における疎外とは、かつての労働者の疎外とは根本的に異なっている。なぜなら、消費社会における疎外とは、だれかがだれかによって虐げられていることではないからである。消費社会における疎外された人間は、自分で自分のことを疎外しているのである。p170

他の誰でもなく、消費者自身が自分で自分を追い詰めるゲームを必死で回し続けているのが、消費社会における自己疎外なのである。

50−60年代にかけて疎外論がもてはやされた時期があったが、その後疎外論は論壇の中心から姿を消す。疎外論には、本来あるべき姿、本来性という躓きの石があったからだ。「本来的なもの」が危険なのは、それがある姿を強制し、自由を奪い、それ以外のものを排除するからである。だからといって、疎外という概念抜きで語ろうとするなら、それは疎外の現実から目を背け、すべてを相対化する現状追認の思想・哲学にしかならないのではないか。

相対主義が支配する中、そこに一つの倫理学を確立するためには、本来性を抜きにした疎外論が必要となる。こうした問題意識のもと、著者が向かうのは、本来性をともなう疎外論を語ったと思われがちな、ルソーマルクスの方へである。

『リヴァイアサン』を書いたホッブスとの対比の中で、著者が明らかにするのは、ルソーが描いた「自然状態」は本来的な人間ではないということである。

ルソーによれば、ホッブスの「万人の万人に対する戦い」という自然状態は、実は本当の自然状態ではなく、人が集団で生活する社会が成立した後の状態、社会状態を描いたにすぎないということになる。

ルソーの自然状態においては人はそれぞれに好き勝手に行動するし、男女が共同生活する理由もなく、所有の概念もない。自然状態では自己保存の衝動である自己愛はあっても、他人より自分を上位に置こうとする利己愛は存在しない。獲物を人に奪われたとしても、それは「自然の出来事」のうちにすぎない。平等や権利の概念がない以上、結果として同じ行為があっても、自然状態では不当さや邪悪さは成立しないのである。

 ルソーが述べていることを丁寧に追っていくと、ルソーが単に自然人の善良を主張していたわけではないことが分かる。自然人は善良であるというより、邪悪なことができないし、する必要がない。自然人は、邪悪さが成立し得ない客観的条件を生きているにすぎない。
 したがって、ルソーの自然状態論は価値判断(どちらがよいかわるいか)のための議論ではなくて、人間の生の客観的条件を描いたものと考えられなければならない。(…)
 そして何よりも重要なことは、ルソーが自然状態について、「もはや存在せず、おそらくはすこしも存在したことのない、多分将来もけっして存在しないような状態」と述べていることである。
pp184-185

つまり、ルソーの「自然状態」は、それとのずれによって、社会状態のみじめさ、疎外を客観的に位置づけることが可能となる作業仮説上の論理的なモデル、人類のゼロ座標のようなものにすぎず、回帰すべき過去や、来るべき理想状態ではないということである。誤解されがちなことだが、この理論的座標軸としての「自然状態」は「本来的なもの」ではない。

本来性なき疎外論の例として、國分功一郎が次に挙げるのはマルクスの疎外論である。マルクスの疎外論も、本来性のある疎外論として誤読が繰り返されてきた。その誤読の第一の例として、パッペンハイムの『近代人の疎外』を取り上げる。

 パッペンハイムによれば、マルクスは疎外された労働の危険を力説したけれども、単に疎外の否定的な面ばかりを見ていたわけではない。マルクスはヘーゲルと同様に、疎外の苦しみとそれを克服する努力によって人間は自己自身へと戻ると信じていた。このことが労働過程に真の意味を与える。パッペンハイムはこう述べて、マルクスの議論をヘーゲルの議論で理解してしまう。マルクスの議論がヘーゲルに対する批判から出てきたことを知っている読者なら首をかしげてしまうに違いない。
 ここに見るべきは一つの典型的な症候である。ここには疎外を論じる人々の欲望が明確に現れている。その欲望とは、本来性へと回帰したいという欲望に他ならない。
p191

こうした本来性への回帰願望は、多くの疎外論者に共通する点であり、本来性という一種のユートピア思想の強要ゆえに忘却されるに至ったのである。著者の主張は一貫している。疎外論は必要である。だが、回帰すべき本来性抜きに語らなければならない。

ベッペンハイムと同じようなマルクスのテキストの誤読が、ハンナ・アレントにも現れる。前提となる修飾語句を読み飛ばし、そこに矛盾を見つけたと主張するのである。そこでも本来的なものへの回帰という形而上学的偏見が色濃く支配していたのではないかと國分功一郎は指摘する。

結論だけをかいつまむとこういうことになる。

『人間の条件』の中で、アレントはマルクスを引用しながらこう語る。

なぜなら「自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働が止むときにのみ始まり」、その場合にのみ「肉体の直接的な欲求の支配」が終わるからである。p195

アレントは「欠乏と外的有用性によって決定される」労働がすべての労働をカバーするものとしてとらえてしまったのであろう。だが、実際にはそれは労働の部分集合にすぎないのである。

 しかしこれは、労働が廃止されたときに自由の王国が始まると述べた文であろうか?
 まったく違う。
 これは、欠乏と外的有用性によって決定されるような労働をが止むときに、自由の王国が始まると述べた文である。
p195

結果としては、こういうことになる。

ハンナ・アレントのマルクス読解:労働は廃棄されるべきである。

國分功一郎のマルクス読解:労働日は短縮されるべきである。

なぜこのような誤読が生じたのか。アレントもまたパッペンハイムと同じような偏見に陥っていたためであろうと著者は推論する。

そのトラップとは一つの偏見、すなわち、疎外について論じている者は、悲惨な現実を全面的に廃棄して本来的な理想状態へと向かうことを志向しているという偏見である。p197

このような偏見と決別しない限り、労働日の短縮を考えた余暇の思想家マルクスにはたどりつくことができない。そのために必要な中心概念こそ、本来性なき疎外論、ルソーやマルクスについて見たように、実はこれこそが疎外論の正統派なのである。

(続く)

関連ページ:
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(1)
國分功一郎『哲学の先生と話をしよう』
國分功一郎『来るべき民主主義』
國分功一郎・古市憲寿『社会の抜け道』(1) (2)


國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(1) (2)
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