つぶやきコミューン

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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(1)
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.2.0



1.序

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(太田出版)は、2011年に河出書房新社から刊行された『暇と退屈の倫理学』の増補新版である。この新版には、付録として「傷と痛み」という1万3000字にわたる論考が収められており、未解決の問題としての「ひとはなぜ退屈するか」に対する現時点における解答となっている。

旧版の新版の間には、大きな社会の変化があった。東日本大震災とそれにともなう福島第一原子力発電所の事故とそれが社会に及ぼした影響、世界全体でグローバル化と格差社会が広がる中で、生じたブラック企業と貧困化の問題、ネトウヨやヘイトスピーチなどの排外主義的問題、政権による歴史修正主義的問題と積極平和主義などに代表される右傾化の問題、メディアの機能不全、ISISの台頭とテロリズムによる中東情勢の混迷化など、旧版の時点では潜在的であったが顕在化されなかった問題が表面化し、さらに予想されない多くの事態が日々生じつつある。こうした日本社会や世界の変容に対して、新版における直接の言及は存在しない。ただ社会情勢に対して敏感である著者のことであるから、見えないパラメーターとして、機能しているのみである。

格差社会と貧困の問題は、実は暇と退屈の問題と密接に関わっている。富裕層と貧困層の二極化が生み出すのは、ある意味豊かさと余暇を持て余すポストモダンの段階を生き続ける富裕層と豊かさを取り戻そうとすモダンの段階を生きる貧困層(かつての中流層)への二極化である。しかし、後者のモダンには大きな違いがある。それはやがて成り上がり、成功するという希望や夢の不在である。これこそが、ポストポストモダン社会の特徴なのである。『暇と退屈の倫理学』の主要部分はポストモダンの時代に書かれ、我々はポストポストモダンの時代を生きている。そのことを前提に、本書は読み進められるべきであろう。

本書のタイトルが『暇と退屈の社会学』ではなく、『暇と退屈の倫理学』となっていることも注意する必要がある。本書は、暇と退屈が、この資本主義社会でどのように消費もしくは消化されているのかという社会現象の分析ではなく、そのような社会の中で、暇と退屈とどのように付き合ってゆくべきか、ひいてはどのように生きるべきかを説いた本なのである。通俗的には道徳と同一視されがちな倫理という言葉だが、少なくとも多くの哲学の徒、とりわけスピノザの『エチカ(倫理学)』の論者である國分功一郎にとって、倫理学は、社会全般の善悪を論じる道徳ではない。倫理学は、個人の選択の是非に関わる問題である。『暇と退屈の倫理学』は、社会全体を視野に入れ、暇と退屈の仕組みを詳細に分析した上で、それに「私」はどのような態度をとるべきか、どのような選択をとり、どのような選択をとるべきでないかを論じた本なのである。

しかし、その論考は、単純な思弁ではなく、先行する多くの論考を系譜学的に取り上げる中で、付帯的な複数の問題と関連付ける複合的なものであるだろう。とりわけ、次のような問題が重要な論理的基軸となっている。豊かな社会と退屈、定住革命と退屈、本来性なき疎外論、ユクスキュルの環世界論、ハイデッガーの退屈論である。この中で、最も重要なのはハイデッガーの三つの退屈に関わる論考であり、本書の主眼もそこにある。『暇と退屈の倫理学』はハイデッガー批判の本でないとしても(なぜなら多くの気づきを著者はハイデッガーに負うている)、その慧眼と同時に詐術を可視化するという意味において、ハイデッガーの脱構築の本であるだろう。

2.豊かな社会の後に来るもの

本書の冒頭を飾るものとして次のような文章がある。あるテレビ番組とそのテーマ曲に関する一節である。

 パリにいる間、とある日本のテレビ番組のことを耳にした。高度経済成長期に様々な困難な仕事に携わった無名のリーダーやそれを支えた人たちを取り上げたこの番組は、当時、中高年男性から熱狂的な支持を受けていた。
 留学中も何度か一時帰国することがあった。その時に実際に番組を見た。多くの中高年男性が支持する理由がよく分かった。そして俺自身も胸を熱くしながら物語を見ていた。
 だが、その番組の主題歌に、なぜか違和感があった。それは、たたえられるべき仕事をしながらも、誰の目にもとまらずに消えていった人たちのことを歌っていた。歌い手のことはむしろ好きだった。ファンだった。しかし、なぜかその歌と、その歌の使い方は気に入らなかった。その時はその理由が分からなかった。
 留学を終えて帰ってきた年のことだったと思う。その番組の特番が放送されていた。そこでこんなシーンが流れた。企業を定年退職した六〇代の男性たちが必死にその歌をコーラスで歌っていたのだった。
 俺は悲しくなった。そして、あの歌が、あの歌のあの使い方が、なぜいやだったのかが分かった気がした。
(p11-12)

様々な理由で、著者は番組の名前も、歌の名前を明示していないが、ほとんどの読者がそれが『プロジェクトX』であり、歌は中島みゆきの「地上の星」であると推測するだろう。そこで著者が感じた違和感、嫌悪とは一体何であったのだろうか。本書の導きの糸となるのは、この違和感の正体を突き止めることであり、そのベースとなる著者自らの価値観を発見し、提示するというきわめて私的な試みなのである。
  この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである。自分が考えてきた道がいかなるものであるかを示し、自分が出した答えをいわば一枚の画として描き、読者のみなさんに判断してもらってその意見が知りたいのである。p11

その違和感の正体の一部は、次に取り上げられるラッセルが『幸福論』の中で語った「人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説」により明瞭になる。多くのことが達成されてしまった二十世紀初頭のヨーロッパでは、若者たちがやるべきことがないから不幸であるのに対し、ロシアや東洋諸国は、新しい社会づくりのためにやるべきことがある、それゆえ幸福であるという主張である。そこで著者が感じたのも同じ違和感であったはずだ。

 彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。ならば、そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に、そうしたすばらしい状況にいない人々、打ち込むべき仕事をもたぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。
 しかし、何かおかしくないだろうか?本当にそれでいいのだろうか?
p15

人は、課題の達成に向けて努力する、その努力は尊いが、その後に来る空虚に対して不幸とする価値観に著者は耐えることができない。国家のためであれ、組織のでためであれ、何かのタスクにとらわれた状態からの解放が、それに劣る価値しか持たないとするなら、それを不幸な状態とみなすなら、人は永遠に何かの奴隷たらざるを得ないのではないか。自分自身の主人ではありえないのではないか。そしてこの空虚を埋めるために、絶えず拠りどころとなる国家や組織を求めることにならないだろうか。一見社会の副次的な問題に見える、豊かさと達成の後に来る余暇と退屈は、ファシズムやブラック企業・社畜の問題とも表裏一体である。それとの正しい付き合い方を考え抜かない限り、人々は戦争やテロ行為に、容易に流れる危うさを持っているのではないか。

哲学者アレンカ・ジュバンチッチの、人は自らを奮い立たせ、突き動かす力を求めて、国家や民族など大義を与えてくれるものへと走りがちであるという指摘を受けて、著者はこう付け加える。

  大義のために生きるのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。
  生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在を、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。
pp29-30

シャルリ―・エプド襲撃事件の犯人も、ISISのジハード・ジョンも貧困層ではなく、裕福な家庭の出身であったという事実は、著者の慧眼ぶりを窺わせる。暇と退屈の倫理学が必要となるのは、このような社会的秩序や世界平和を脅かす大きな危機につながる問題でもあるからなのだ。

3.定住革命と退屈

人類史上最大の退屈の思想家パスカルは 「神なき人間のみじめさ」として、人間の不幸は家でじっとしておれず、賭け事やウサギを追いかけるような気晴らしをしないではいられないことにあるとし た。そこには「欲望の対象」と「欲望の原因」の取り違えがある。しかし、退屈に対してパスカルが提示した解決策である神への信仰を多くの人はとることがで きない。

ラッセルは『幸福論』の中で、積極的な解決策として熱意をもって取り組める活動を見つけることを提案し、スヴェンセンは『退屈の小さな哲学』で、消極的な解決策、ロマン主義者であるのをやめることを提案する。しかし、そもそもこの退屈はロマン主義以降、近代以降に生じたものであろうか。単に社会の問題なのだろうか。

西田正規の 仮説「定住革命」を取り上げながら國分功一郎が提示するのは、退屈は約一万年前に始まった定住革命とともに生じたとする新しい考えだ。一万年前に氷河期が 終わり、それにともなう気候変化や生態系の変化によって、それまで数百万年にわたり遊動生活を行っていた人類は、定住生活を余儀なくされるようになったの である。

「中緯度地域における温帯森林環境の拡大は、旧石器時代における大型獣の狩猟に重点を置いた生活に大きな打撃を与えたに違いない」。
  狩猟が困難になれば、植物性食料か魚類への依存を深める他ない。だが、温帯森林環境では、熱帯雨林と異なり、植物性食料のとれる量が季節によって大きく変 動する。また、魚類資源に依存するにしても、冬場は水域での活動が困難である。したがって、この地域で、生活を続けるためには、貯蔵が必須の条件となる。 そして貯蔵は移動を妨げる。貯蔵に必要に迫られた人類が、定住を余儀なくされたことがこうして想像できるのである。
pp83-84

人類は食料生産が可能になったため、それまでの遊動生活をやめ、定住生活にはいったのではなく、むしろ食料生産は、定住生活の結果なのである。

定住革命は人類に様々な変化をもたらした。ゴミや排泄物、死体の処理の問題。共同体内のトラブルの処理の問題。私有財産という考え方が生まれ、経済格差が生じる。それと同時に、人類は退屈を回避する必要に迫られるようになる。

遊動生活において、人類は水や食料、住居の確保のため、また外敵による危険を回避するため、五感を動員する必要があった。定住生活により、環境が固定され、周囲の風景から変化がなくなるにつれ、こうした能力は失われてゆく。

 だから、定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面をもとめなければならない。
 こう考えれば、定住以後の人類が、なぜあれほどまでに高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体系や芸能などを発展させてきたのかも合点がいく。人間は自らのあり余る心理能力を吸収するさまざまな装置や場面を自らの手で作り上げてきたのである。
(…)
 定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。
pp92-93

定住革命がもたらした退屈こそは文明の生みの親であり、また様々な災いを人類にもたらしたパンドラの箱であった。ゴミや排泄物にはゴミ捨て場や排泄物という 解決策が与えられたのに対し、退屈に対しては人間一人一人が解決策を見つけ、定住革命を成し遂げなければならないと著者は言う。

 パスカルは述べていた、「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋のなかに静かに休んでいられないことから起こるのだ」と。これはまさに定住以後の人間の不幸だ。だがパスカルよ、人間が部屋のなかに静かに休んでいられないのは当然のことなのだよ!
 信仰の必要性を説くパスカルには従えない。そして、当然のことながら、遊動生活時代の復活を夢みることもできない。パンドラの箱には最後に「希望」が残っていたらしい。本書はまさにこの「希望」の探究である。
p96

『暇と退屈の倫理学』
が 探究するのは、この一万年来の人類の課題に対して答えることである。しかし、その旅程はたった一つの答えを探し求めるものではない。多くの先人の解決策を 踏破し比較検討する中で、読者に対し可能な限り考える材料を与え、それぞれの解答を見つけ出す手助けをするための旅なのである。(『暇と退屈の倫理学』(2)へ続く)

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