つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

サルトルは芝居を演じるように、曲のなかに身を置いた。そこで彼は役を与えられ、たとえばショパンとなり、フレーズに導かれながら音楽に自分の身体と感情を結びつけていった。そして、演奏しているあいだだけ、音楽のなかで想像しているあいだだけ、サルトルは自分が参加している社会的・政治的現実から解放された。(「オフビートのピアノ サルトルの場合」p37)

 ピアノはニーチェにとって楽器以上のものだった。一表現手段にとどまらず、ニーチェが自分の価値、尺度、強度を明らかにするための音の場だった。(「なぜ私はこんなにも素晴らしいピアニストなのか ニーチェの場合」p133)

ピアノを弾くとき、バルトは自分自身しかかかわりのない世界を作り上げる。すると演奏者の存在は消えてしまい、あとにはバッハやシューマンしか残らない。(「ピアノが私に触れる バルトの場合」p165)



哲学者がピアノを弾く時、一体何が生じるだろうか。フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者 サルトル・ニーチェ・バルト』(太田書店)は、哲学的思索と音楽的な演奏の間の感覚的交流の世界に分け入り、哲学者と愛好する音楽家の伝記的事実や文章、資料のはざまで思索をめぐらせた類のない書物である。

ここでヌーデルマンが取り上げているのは、三人の哲学者、ジャン・ポール・サルトルと、フリードリッヒ・ニーチェロラン・バルトである。サルトルとニーチェに関していえば、哲学史上のスーパースターであるが、構造主義の一角を担う記号論の大家ロラン・バルトを哲学者と呼ぶかどうかに関しては、意見が分かれるかもしれない。しかし、言語による思索的試み、いわゆる現代思想に大きな影響を与えたことは確かであるし、広義の思想家を含めての哲学者なのである。

これら三人は、哲学者になる以前に、つまり幼いころより、すでにピアノを弾く人、ピアニストであった。彼らが愛したピアノ曲とは、サルトルの場合にはショパン、ニーチェの場合もショパン、そしてロラン・バルトの場合はシューマンと、いずれもロマン派の孤独と主体性を旨とした音楽である。そこには、哲学者たちが本来の仕事として論じた音楽的対象との間に、あるずれが存在し、それに著者は注目する。そこでは身体性に基づいた、運動と時間の原理が支配する。

哲学者たちの言語的営みの水面下ー感性や無意識の部分で、うごめいていた現象の世界へと、著者は分け行ってゆくのである。

とは言え、三人の哲学者におけるピアノへのアプローチはそれぞれに異なるものであった。旋律を重んじたサルトルの場合は、いわば著作や現実界へのアンガージュマンからの逃避の場所、言語的営為の余白の世界でありった。プロ並の演奏技術を持ったニーチェの場合には、七十数曲の多ジャンルにわたる作曲を行い、自らの哲学の分身とも言える存在であった。ワグナーとの不和の根源にも、自らの音楽への過小評価が鳴り響いていて、その回復にピアノを必要とした。著作の中で「真にシューマン的なピアニスト、それは私である」と語ったロラン・バルトは、他の著作のようなフィギュールを用いることなく、あくまでアマチュアピアニストである自らの身体性に基づいてのみ語った。

氷山の水面下の部分のように、これらの哲学者の陰の部分、きわめて私的で親密な世界をピアノは支配していたのである。著者は、いかにして、それは生じ、時間の推移の中で何が起こったのかに光をあて、解明しようとする。

これは哲学的論考なのだろうか、それとも音楽的論考なのだろうか。ある意味において、心理学的・生理学的考察である『ピアノを弾く哲学者』は、もう一人のピアノを弾く哲学者ヌーデルマンによる、共感と感情移入による哲学者たちの心の肖像画である。それは陰の葛藤や心の襞に至るまで明らかにする、夢見心地の書物であるのだ。

著者がこの本を書く動機となった動画:



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