つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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猪瀬直樹『さようならと言ってなかった』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本
 
 ゆり子が静かな寝息をたてている病室のモニターの画面に、赤や緑や青の波が無機質に揺れている。ゆり子と出会った、そしていまも同じ時間を共有している、それは、単に長い時間が通り過ぎて行ったということではなく、夜空の無数の星と同じぐらい数えきれないたくさんの輝いた瞬間をいっしょにつくることができた時間であった。人と人が出会う、凄いことではないのか。
(猪瀬直樹『さようならと言ってなかった』p158)




2013年夏の日本の話題をさらったオリンピック招致合戦のさなか、この世を去った一人の女性がいた。当時都知事であった猪瀬直樹氏の妻ゆり子氏である。都知事としてのキャリアの頂点とも言えるまさにその時に、同時進行しつつあった悲劇があったことを、猪瀬氏自らの手による『さようならと言ってなかった わが愛わが罪(マガジンハウス)を読み、多くの人は初めてつぶさに知ることになる。たしかに7月の終わりごろ直樹氏のツイッターで、奥さんがなくなったことが告知されたことは記憶している。しかし、それは長い闘病生活の末の、十分に心の準備もできた後のことであろうと思っていた。
 
「いったん寝床に就いたが、眠れない。僕を襲っているのは喪われゆく人への思い出の大津波である。冷酒に肴が間に合っていないせいではない」p97

その前に、こんなツイートがあったことも記憶しているが、その時は盟友の文学者か、政治家が死の床にあるのだろうと思っていた。 そして、プライベートな事柄であろうからと、それ以上の詮索を自らに禁じたのだった。

しかし、それはほんの二、三か月前まで直樹氏とともに、元気に公式の場にも立ち続けていた妻ゆり子氏のことであったのだ。

予兆は、まず12年間飼っていたラッキーという愛犬の死から始まった。その後に、ゆり子氏の身辺で小さな異変が相次ぐ。テニスのボールが打ち返せなくなる。記憶があいまいになり、正しい言葉が出てこない。ペットロスのせいではと精密検査を受けてみると、脳腫瘍だと医師に告げられる。最重篤な段階のグレード4。もはや手術しても回復の見込みはない。余命数ヶ月の命。

その間にも、オリンピック招致のため、直樹氏はぺテルスブルクへと飛ばなければならない。一緒に行けないことを伝えつつも、軽い脳腫瘍で手術すればよくなると、伝えながらの出発であった。しかし、乗ったボーイング787は、トラブルで、間に合うかどうかわからない。悪いときには不吉な出来事が重なるものである。

何とか、間に合いプレゼンを無事終え、帰国する。ゆり子氏は手術を受け、小康状態を取り戻したかに見えたものの、その後容態は急変する。そして、意識が戻らぬ妻を前に、著者の思いは、47年前へ、ゆり子氏と出会い、一緒に生活を始めたあのころへと戻ってゆくのである。当時流行った『花嫁』のメロディーが蘇る。

直樹氏19歳、ゆり子氏18歳。学園紛争の嵐が吹き荒れるころ、一瞬で恋に堕ち、そのままずっと一緒に人生を歩みだしたあのころへと。就職活動もまともにしないまま、雑文書きのキャリアを始めた直樹氏を、小学校の教師をしながら支え続けるゆり子氏だが、やがて長女が生まれ、保育所に預けるために、その給料の大半が消えてしまう。さらに、長男が生まれる。そんな中でも何とか、作家としての体裁を整えようと、都内に事務所を構える。雑文ばかり書いていても埒があかないと、借金までして書下ろしの著作を執筆しようとする。こうして生み出された『天皇の影法師』、そして『ミカドの肖像』。ここには「私小説は書きたくなかった」そう語る作家猪瀬直樹の、これまで語られることのなかった若き日の肖像がある。それは同時に『神田川』を聞きながら青春時代を過ごした世代のリアルな生活の歴史であり、作家の家計簿でもあるのだ。その中で、ほとんど綱渡り的な生活を続ける猪瀬家を、一身に引き受け支え続けてきたゆり子氏の、凛としたゆりのような姿が浮かび上がってくるのである。

次なる招致合戦の舞台がローザンヌへと移る中、ゆり子氏は再手術を受けるが、経過は思わしくないまま、冷蔵庫に残された作り置きのロールキャベツを長女とともに味わう猪瀬氏の姿は、深く心に残る場面である。
 
  為す術もなく「花嫁」のCDを、またかけた。もう聴こえていないのかも知れない。聴いているのはベッドサイドの僕ひとりなのだ。西麻布に戻り荷造りをしていると、娘が仕事先から心配して電話をかけてきた。
 「ちょっと、立ち寄れないか。ママのロールキャベツが残っている。いっしょに食べたいんだ」
p90

人生に天国と地獄の時期はつきものだが、そのクライマックスを同時進行で経験する人はまれである。余命数ヶ月の宣告から、死にいたるまでの期間はわずか2ヶ月にすぎない。その時間のなんと重く、濃密なことだろう。作家猪瀬直樹は、怒涛のように過ぎてゆく時間の重さを、二つの時間を並行して進めることによって見事に表現している。

都の副知事、そして圧倒的な得票数で都知事となった猪瀬直樹氏の立ち位置は、きわめて微妙なものであった。一方において、保守陣営にとっては、既得権益の巣窟に手を差し込み引っ掻き回す、いわば獅子身中の虫である。他方、革新的な考え方を持った人の中には、ある時は国家主義的な考えの持ち主の石原慎太郎氏の手先扱い、あるときは新自由主義的な小泉純一郎氏の手先扱いする人もいる。いわば右からも左からも疎まれる存在であったが、その心の核となったのは、作家としての立場であった。たとえ政治的な課題であろうと、明治時維新前後まで遡り、この国の正体を明らかにしようとするノンフィクション作家としての視点がつねにリンクする。どこまでも文学的なアプローチで、この国最大の病巣である官僚主義の盲点を突こうと、ひたすら竹槍のごとき「言葉の力」で戦い抜いてきたのであった。猪瀬氏は、右とか左とか、大きな言葉を信じない。目の前の個別具体の課題に愚直なまでに取り組むのみである。それゆえに、霞ヶ関相手にも、東電相手にも善戦した。政治家、学者、ジャーナリストー大きな言葉で、官僚や東電を批判することはできても、実質なんの戦果もあげない人々の中で、唯一作家的政治家猪瀬直樹は強烈なボディーブローを浴びせることができた存在だった。

だから、多くの人にとっては、霞ヶ関独特の文法を熟知し、その盲点を突いて牙城の一角を崩すことができた猪瀬氏がなぜ、5千万円の授受のようなブービートラップにひっかかかったのかが最大の疑問であった。本書の流れを読むとそれも自然に納得がゆく。たまたま魅力的な文学者でもある「変人」の政治家と出会い、そのいきがかりで副知事になったものの、副知事である5年間の間に、政治家としてのリテラシー、特に選挙のリテラシーをまったく磨いてこなかったのである。地方の議員からのし上がった人物なら、当然知っておくべき選挙のいろはもほとんど学習してこなかった。博識な勉強家であっても、主体的にテーマにしなければ身につくものではない。霞ヶ関や東電に対する先鋒となりうる人材の後継者が、保守・革新を問わず、不在である現状を見るにつけ、この点はかえすがえす残念に思うのである。

『さようならと言ってなかった』は、はたして悲劇の記録なのだろうか。人はいつか死ぬ。添い遂げた夫婦も、99パーセントはどちらかが先立つ。学生時代から、まるで恋人時代そのままに47年間も苦楽をともにし、並走し続けた二人の人生は、美しく、うらやましいとさえ思う。病床に伏しながらも、ゆり子氏の心は異国の空でプレゼンテーションに奔走する直樹氏とともにあったことだろう。そうして、今はようやく遅ればせに自分のことを書いてくれた夫の本を、天国で読みながら、微笑みを浮かべていることだろう。ゆり子氏の作家猪瀬直樹に対する最大の不満は、自分のこと、自分たちのことを書いてくれないことだったのだから。

この文章を書くために、二度読み返したがやはり涙がとまらなかった。政治の世界から退くことになったが、ノンフィクション作家猪瀬直樹は健在である。好きな人がいれば、思わずもう一冊買って贈りたくなる、そして人生の来し方行く末をともに語りたくなる、心に残る書物である。
 
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