つぶやきコミューン

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中井祐樹『希望の格闘技』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略  Ver.1.01
 
  格闘技はスポーツ・運動であるが、同時に人間学であり、教育学でもある。いろいろな考えに触れ、それぞれのフォーマットに従って動いてみることも、重要な探究手段なのだ。その中で自分に合った競技、自分に合った動き、自分の考えや他の考えとの違いを知っていくのだ。(『希望の格闘技』p121)



本書の著者中井祐樹は、格闘技界において、<伝説>の人である。

バーリトゥード黎明期の1995年4月20日、日本武道館におけるジェラルド・ゴルドーとの対戦は、今日にいたるまで語り草となっている。中井祐樹身長171センチ、体重71キロ。対する前年度準優勝のゴルドー188センチ、100キロ。常識ではありえない体格のハンディの中で、中井はゴルドーに対し、ヒールホールドで薄氷の勝利を収めた。続く二回戦でも185センチ115キロの巨漢、クレイブ・ピットマンに腕ひしぎ十字固めで勝利をおさめ、最強の男、ヒクソン・グレーシーとの対決にまでこぎつけた。しかし、一回戦でゴルドーに度重なるサミング攻撃を受けた中井は、このころには右目の視力を失っていた。

この大会の模様は、増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』のコミカライズである『KIMURA vol.0』(原田久仁信画)の中で60数ページにわたり詳細に語られているが、本書で中心として語られるのは、そうした著者の格闘技の戦いの歴史ではない。ゴルドー戦の説明は、わずか9行にすぎないのである。



中井祐樹は、本書巻末の対談相手である増田俊也の北大柔道部の三年後輩であり、悲願であった七大学優勝をとげたメンバーでもある。増田の北大柔道部での青春の日々は、自伝的小説『七帝柔道記』の中で数百ページにわたり展開されているが、そうした北大での青春時代の思い出もわずか3ページで淡々と語られるのみである。



過去の功績を声高に語りたがらない著者の性格ゆえと言うべきか、増田俊也という最良の語り部を得たためというべきか、対ゴルドー戦も、北大柔道部の思い出も、中井祐樹を知らない人のための自己紹介のような「序章 私の闘い」の中の一コマにすぎないのである。

『希望の格闘技』(イースト・プレス)で語られるのは、中井祐樹の格闘技論であり、人生論、教育論である。

格闘技と人生と教育の間に中井祐樹は区別を設けない。それは同じ一つのものである。だから、格闘技論はそのまま人間学となり、教育論となる。

その中心となる考えは、個体化された身体の自由ということである。つまり、様々な流派やスタイルに対して、自由であり続けるというスタンスが徹底している。そして、後進の教育においても決して一つのスタイルを押し付けることなく、むしろ一人一人が自分の型を見出すことを助けようとする。それが中井祐樹の考えるMMA(ミックスト・マーシャル・アーツ)、いわゆる総合格闘技の基本概念である。
 
 格闘技はスタイルではなく、個体で考えるほうが、かえって発想が豊かになるものなのである。p147

個人は、様々な格闘技と出会い、それを吸収し、自ら相違工夫しながら練習を積む中で進化してゆく。そのプロセスに終わりはない。強さも、スタイルも、あくまで現在の時点の仮のものにすぎない。強さも、スタイルも、時間とともに変化してゆくのである。

だから、最強の格闘技は何か?と問われた場合の答えも、ないということになる。
 
 最強の格闘技というものは、その意味において、ない。というか、移り変わる。なぜなら戦略や技術は、日々進歩していくからだ。
 敢えて言うなら、最強はチャンピオンその人である。その人の血の滲むような努力(キャリア)とコンディションが、最強を決めるのだ。
p77

個人の強さは、つねに流派やスタイルの外にある。だから、基本とは何かという問いに対しても、何か特別なトレーニングや技術ではなく、著者はこう答える。
 
 だから私が使う「基本通り、基本を大切に」とは、「自信を持って、それで行けるから」という意味なのだ。これはとても重要なことだと私は思う。自分の身体を通して身に付いたものが基本なのだ、と。p38

新しい技術と古い技術、量と質、体重差と無差別、一芸と多芸、個人と団体、選手と指導者、成功と失敗、アマチュアとプロ、スポーツと武道、術と道、長所と欠点、本書を通読して感じることは、実に多くの対概念が扱われていることである。世の中は、物事を二者の対立関係として扱うのが好きである。二元論で物事を扱う方がわかりやすいし、一般の人々にも訴求しやすい。しかし、著者の手にかかると、そのあるものは対立は見かけのもの、言葉の綾にすぎないとして解消され、他のものは不可分のものとして再度混ぜ合わされた上で、一方の他方への依存関係や転化の関係として再整理される。
 
 だから、「武道か、スポーツか」は二者択一でも優劣でもないし、そもそも争うところではない気がする。要するに次元が違う話をしているだけだ、と思う。pp124-125

それは心技体の三者の関係にしても同じである。
 
 ただ、この三つの要素は、言うなれば抽出された「スローガン」に過ぎないと思う。それぞれが独立して存在しているわけではなく、その順番に意味が込められているわけでも本来はないと思う。(…)
 私の理解はこうだ。勝負を決めるのも、人生を形作るのも、物事を決めるのも自分、他者、そして基準だ。何かを解析するのには、三つに分解するとわかりやすいのは確か。しかし、私の興味は三つには分けられず、いつも様々な要素が混じり合って存在する、世界にただ一個の「肉体」だ。pp52-53

最後には、すべてが混じり合う場としての、一個の肉体、身体性の論理へと帰ってゆく。

こうした対立項に対し、しばしば、中井は「同じもの」である、その間に「区別はない」と言った言葉を用いる。しかし、この言葉を、ただ表面的に受け取ってはいけない。修練を積んだ者のみが語りうる奥行き、深さがそこにはあるのだ。それは、巻末の増田俊也との対談の中ではっきりと示されている。
 
オリジナル柔術を生むひとつの手立てを考えると、昔、レオジーニョが柏崎克彦(元柔道世界選手権優勝)先生と対談したとき、「おたくの柔術はグレイシーとは違うのか」と聞かれたんです。これは最高の質問ですね。それに「同じです」と答えたんです。この問答だけでもお腹一杯ですね(笑)
同じなわけがないですよ。かたやアクロバット柔術と言われた派手な柔術家と、ホイラー・グレイシーの柔術が。確かに、ルーツを辿ればそう言えなくもないですけれども、絶対に違う。だけど、意地もあるだろうし、ホイラーよりも自分が上だという気持ちもあるかもしれないし、それを「同じですよ」と言う。これをみんなに言って欲しいなと思ったんですね。
 例えば七帝柔道出身で、柔術の黒帯になる人もいるわけですね。そういう人たちが、「おたくとグレイシーは違うの?」と言われたら、「いやー、やっぱり違いますね」ってたぶん言うと思うんです。でも、「同じなんだけどな」と僕は思うんです。「同じ」という言葉に、先人への敬意もあり、意地もあり、人の差なんてどうってことないという感覚もあり、もうすべてが同包されているんです。
pp187-188

中井祐樹にかかれば、違ったものは「同じ」ものになってしまう。これは表面の技術ではなく、より抽象化された身体の運動・トレーニングの本質へと還元する思考ゆえに可能な言葉である。
 
失礼だと思うんですけども、僕は「格闘技、全部同じですよ」とも言う。ストラクチャーが同じだからです。要は型をやって、実戦で使えるかどうか試して、実証して、身体にいいかどうか検証して、それを繰り返しているだけじゃないですか。全部、同じです。p188

これは、どこからどのルートをたどって登ろうと、富士山は富士山であると言うのと同じだろう。

そう信じる中井だが、同時に簡単に人が分かり合えるとも信じてはいない。
 
 人と人とが完全に同意することなどはない。また完全に違うなどということもない。それぞれの人の主張は、すべてその人の中において正しく、同時に全員他人の観点からは間違っている。それが人の世だ。格闘技観にしたって同じことだ。p172

人が言葉によって分かり合えないとしたら、どこにコミュニケーションの可能性があるのだろうか。それもまた身体であり、触れ合いである。触れ合いの場を設けることによってである。
 
 強かろうと弱かろうと、大きかろうと小さかろうと、思想や信念に違いがあっても、どんな人間でも構わない。そんなことより、触れ合うことだ。意見が同じでなくても、全く構わない。そんなことより、直に言葉を交わすことだ。p119

今日、世界で行われている争いのほとんどは、じかに触れ合うこともなく、言葉を交わすこともない人々の間で行われていると言ってよいだろう。顔の見えない相手、身体を触れることのできない相手には、何を言ってもよいし、何をしてもよいような感覚の麻痺が、無用の憎悪を生み、無用の戦争を生む。

格闘技における闘いは、限りなく戦争に近いものであるからこそ、自分と相手の有限な身体を感じる格闘技に、こうした戦争を止める力があるのではなかろうか。一人一人の人間の身体性の原理が失われた時、人間は戦闘行為において、単なる殲滅すべき標的にすぎなくなる。日々の練習において、自らの、そして他人の痛みを知ることのできる格闘技は、その意味において、人類の希望であり続けることだろう。格闘技が、最良の教育として機能しうるのも、まさにこの意味においてである。

ニーチェやサルトル、カミュに影響を受けたという中井祐樹の言葉は、あらゆる人生を肯定する力強さに満ちている。バーリ・トゥードの闘いにおいて、右目視力を失った時でさえも、一切の恨みはなく、感謝の気持ちしかなかったという中井にとって、戦うべきものはたった一つしかない。それは、人の自由な歩みを脅かすものの存在である。
 
 それは「人が自分の考えややり方でやろうとしていることを否定し、潰そうとすること」に対してである。私はこの一点に対してだけは、激しく怒りを覚える。p134

希望の格闘技は、それぞれの人間が、それぞれの仕方で、自らの人生を切り拓き、歩み続けることを促す自由の格闘技でもある。その目標は、他人のコピーではなく、完全に自分の身についたオリジナルを確立することにある。

増田俊也の言い方を借りれば、「思想家」中井祐樹の闘いはまだ始まったばかりである。

関連リンク:
中井祐樹×常見陽平:格闘技界のレジェンドから学ぶ仕事術(1)
中井祐樹×常見陽平:格闘技界のレジェンドから学ぶ仕事術(2)
中井祐樹×常見陽平:格闘技界のレジェンドから学ぶ仕事術(3)

 
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