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坂口恭平『現実脱出論』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 



私たちは、目の前の現実を唯一の真実だと信じ、生きている。しかし、それは社会的に作られたフィクションであり、それを共有することによって、大体の人はうまく周囲とやってゆくことができると考えている。だが、その現実に居心地の悪さを感じる人間も少なからずいる。年間三万人近くに上る自殺者の数は、それを暗示するものであろう。
 
 僕たちは、簡単に知覚しうるものだけで構成された「現実」という名の立体空間を、無意識下で作り上げた。さらに集団を形成することで、「社会」と呼ばれる、言葉をもとに人間を管理し、抑制する空間をも生み出した。
(…)現実という傘の下で無理矢理生かされていると思っている人間は、それが本当は違うのではないかとどこかで思っている。自分たちが忘れたと勘違いしている「別の空間の目」が露になるコンクリート(現実)の裂け目を、いつも探している。

pp95-96

坂口恭平『現実脱出論』は、そんな目の前の、誰もが当たり前として受け入れる「現実」から脱出するための方法論であり、同時にそのまま坂口恭平の芸術的創造の方法論ともなっている。

ここで坂口恭平が言う現実脱出は、現実逃避とは異なることを最初に強調しておかなければならない。
 
 たとえば、お金がない。仕事がない。人から嫌われている。人と気軽に話すことができない。仕事場で怒られてばかりいる。空気が読めない。引き籠もりである。才能がない。孤独である。なんだか知らないがずっと不安を感じている。こんな時、現実逃避したいと誰もが思う。
 しかし、現実逃避というのは、「現実」という地面の上で逃げ続ける行為だ。つまり、同一平面上での運動である。これでは逃避すればするほど、本人の意図とは裏腹に、現実の存在感を強化してしまうことになる。
 終わりがない現実逃避は、現実という架空の世界地図をどんどん広げていくようなものだ。現実以外にも実は存在している他の複数の世界を、知らぬ間に侵食し、現実という世界で全て覆ってしまう。
 僕が考える「現実脱出」とは、現実逃避のことではない。
 現実脱出とは、見たくない現実を見ずにすませることではない。僕はこの言葉に、「これまで蓋をしたり、存在を体感しているのに現実的ではないと切り捨ててきたことを直視してみる」という意味を込めている。客観的に見ることが困難な現実を観察するために、現実の中に潜んでいるもう一つ別の空間の可能性を見つけ出す行為と言ってもいい。
p28

『現実脱出論』の意図は、この文章の中に要約されている。現実脱出の糸口、入り口は別の場所ではなく、今いるこの場所の「現実」のそばに、影のような分身として寄り添っているのである。

社会的に作られた「現実」は、排除の規則によって成り立っている。世界が与える様々な知覚の束、認識の束の中で、社会的に共有され、表現されるものを選別し、その他のものを排除する。ミシェル・フーコー『狂気の歴史』では、いかにして17世紀古典主義時代に、ヨーロッパにおいて、様々な社会的余白で生きていた人を「狂気」として排除し、<理性>が成立したかを、詳細に収集、分析している。それは、同時に哲学において、コギト(われ思う)という理性が成立した時代でもあった。デカルトのコギトは、思考が自意識を持った偉大な瞬間でもあった。だが、それは襲い来る様々な知覚の束を、悪しき精霊のささやきとして退ける決意とともにである。こうして、理性は万人が共有できるものとなり、常識=共通感覚(common sense)のもとに制御されることとなったのだ。そして、それはヨーロッパ文明が摂取され、近代化された国家における共通の前提となって今日に至るのである。

しかし、共通感覚などといったものが本当にあるのだろうか。色という感覚の一義性もまた、社会的なフィクションである。色盲や色弱と呼ばれる社会のマイノリティである人々にとって、どのようにもろもろの色が知覚されるかを知るすべは私たちにはない。
 
 人によって色の微妙な差異の感じ方が違うのは、理解できる。色を知覚する目の器官には、人それぞれに個人差があるだろう。だから、赤系の色という同一平面上で違うものを選ぶのはわかる。
 しかし、僕にとっての赤色が、娘には僕にとっての青色のように見えているかもしれないという疑問を払拭するのは難しい。人それぞれの赤色が、実はまったく別々の色で、ねじれの位置に漂っている可能性は否定できない。むしろ、現実では同じ赤色を選んでいたとしても、実は違うように見えているのだと考えたほうが自然なのかもしれない。
p39

デカルトのコギトは、そのままニュートン的な科学的認識とも機を一にする。共有され、変化しないものとしての絶対的な空間と時間の座標。そうして作り上げられた科学と哲学の連携によって、近代的な理性はゆるぎないものとして、世界を支配することとなった。そこにもはや精霊たちのささやきはない。

しかし、私たちはそうした現実に対する認識が社会的虚構であることを知っている。それは、たとえば社会的な学習と成熟の中で排除の規則が徹底される前の、幼年時代の経験の中に、宝庫として眠っている。そのような世界に対する認識は、フッサールの現象学に接したサルトル『嘔吐』の中で記述したような、公園のマロニエの木を前に、意味性を剥奪されたもろもろの事物が、洪水のような圧倒的感覚の束として立ち上がるのと共通の経験である。

「現実」とは、すべての人が、同じもの―とりわけ同じ時間と空間−を共有するという虚構である。しかし、実際には時間も空間も一人ひとりにとって異なった形になって現れる。そして、同じ空間も、いつも同じような形で現れるわけではない。人はみな固有の時間を過ごし、固有の空間を過ごしているのである。

たとえば、坂口恭平が9歳の時に経験した引越し準備前と後との、空間の変容、時間の変容。
 
 一学期の終業式が終わると、すぐに引越しの準備がはじまった。段ボールに荷物を詰めていくと、ずっと暮らしてきた部屋が、次第に誰も住んでいない空間のように見えてきた。子ども部屋だったはずなのに、畳の上に座ってもそこが自分の場所であると感じられない。前より狭くなったような気もする。まるで自分の家の中で迷子になったような感覚であった。
 同時に時間の体感も変化した。引っ越しの準備をしている午前中が、とても長く感じられたのだ。それは部屋で迷子になっている僕を介抱してくれるように、自由な気持ちにさせてくれた。(…)
 自分の巣である家が空虚になっていくにつれ、重力から解き放たれたような身軽さを獲得していく体験は、引越しという絶望を癒す麻酔薬のように僕を慰めた。

 日常であるはずの世界で、日常的ではない空間と時間の体験をする。
pp30-31

その空間の変容は、成人した後の居酒屋でも感じる。お客のいない支度中の居酒屋は広く感じるはずなのに、逆に狭く感じる。しかし、客が増えた数時間後、その印象はがらりと変わる。
 
 ついつい盛り上がり、気づいたときには数時間経っていた。もう外は真っ暗。話が落ち着いたので、まわりを見渡すと、店内はぎっしり人で溢れ返っている。
 すると、今度は不思議なことに店内が広く感じられたのだ。人で満杯なのだから、逆に狭く感じるはずじゃないかと頭では思うのだが、夕方とは比べものにならないほど大空間に見える。まるで居酒屋全体がゴム風船のように膨張したかのようだ。
 さっきまで寂しげだった店内は、魅惑的な空間へと変貌している。
p33

現実という世界が唯一無二のものでないこと、その人固有の時間と空間がいつもそこにあること。それらは、認知症やホームレスの人の独自の空間認識の中に顕著なかたちで表れる。『現実脱出論』と前後して、『徘徊タクシー』が書かれたものも、まさにこのような意味においてである。
 
 先日『徘徊タクシー』という小説を書いたのだが、その元となったのは僕が曽祖母から聞いた何気ない一言である。彼女は認知症だったのだが、熊本の祖父母の家の周辺を一緒に散歩していたら、そこを山口県と言っていたのだ。はじめは勘違いかと思ったし、周りの大人たちはみんな「おばあちゃんはボケてるから」と言うのだが、僕はふと「もしかしたら曾祖母は、現実とは別の空間で山口県に行っていたかもしれない」と思ったのだ。
 
 これらの人々は、現実では路上生活者、精神障害者、認知症患者などと枠にはめられてしまう。そして、現実的にはあり得ないことや、捉えることのできないことをする人間として、すみやかに排除される。もちろん、安定した社会を円滑に進めていくという目的のために。
p95

『現実脱出論』は、このように幼年時代の知覚や、坂口恭平自身の躁鬱病の経験、マイノリティーの人々の感覚を手掛かりにしながら、現実の傍らに眠っている別の世界、固有の時間と空間を発見するための方法論となっている。しかし現実から脱出するだけではいけない。現実なしには、私たちは生きてゆくことができないからだ。
 
 だからといって、現実が持っている排除機能をそのままにしておいてよいとは思えない。それぞれの人が持っているそれぞれに固有の空間認識、知覚の在り方を、そのまま切断せずに、それでも集団として社会を形成するには、一体、どのような方法があるのだろうか。p95

『現実脱出論』の後半で、坂口恭平は、自らの例を挙げながら、創造という行為によって、これらの時間や空間の認識の固有性を言語へと、もろもろの線へと変換しながら、いったん現実より脱出し、さらにこの現実へと戻ってゆく方法を提示する。虚構の、物語を伝えることの意味は何だろう。
 
 しかし僕は、自分が体感した「現実とは別の空間」を伝えることこそが、「物語」を書くことだと捉えている。p133

坂口恭平は「現実」を否定することなしに、「思考する他者」として捉えようとする。いったん「現実」から認識を分離しながら、その存在を肯定すること。それによってコミュニケーションも可能となる。

思考とは何だろうか?この問いに対し、坂口恭平は思考とは巣であり、空間であると言う。
 
 現実とは、「集団における空間」であり、あくまで個人の空間は「思考」そのものである。個人にとっては、自分自身の体の中に形成された自家製の「思考という巣」こそが実体のある空間であり、現実という空間は、個人にとって「錯覚」にすぎない。p164

しかし、思考は現実なしに存在することはできない。そして、私たちも現実なしに生きることはできない。現実は仮想空間にすぎないが、他者とコミュニケーションを行う舞台装置である。安全地帯の空間である思考から一歩足を踏み出し、他者である現実へと歩み寄ること、その行為こそが「創造」であると坂口恭平は言う。
 
 他者の思考との邂逅、対話を直接的ではないにせよ、可能なかぎり滑らかに実現するための方法とは一体何か。
 僕はこれこそが「創造」であると考えている。
p167

思考を創造すること、それは新たな空間を創造することである。モバイルハウス、絵画、音楽、小説、評論もしくはエッセイ的な文章を通じて、坂口恭平の思考は新たな空間を創出し、あるいはその概念を人々に伝える。そしていつしかそれらは、人々の「現実」の一部となる。
 
 思考と現実をつなぐ扉を封鎖し、集団で使われている言語が仮想のものであることを認識する。そして、自らの思考という巣に籠り、独自の言語だけで、つまり独自の建築技術によって、巣をさらに増殖、修繕していく。現実における「常識」に抗うのではなく、自分自身に内包されている独自の秩序に従い、体の振る舞いによって、慣習という名の誤解や思い込みを撹拌し、創造を行うのだ。p168

思考=空間と現実=他者の間の存在しうるものこそ、創造である。坂口恭平においては、まず思考は、その快適な空間の確保のために、現実との共犯関係から身を引き離し、固有性を確保しなければいけない。しかし、現実を否定することはできない。現実を認識し、それとの弁証法的関係の中に身を置かなければいけない。その媒介となるのが「創造」である。

なぜ、いったん現実から身を引き離す必要があるのか。なぜ現実と癒着したままではいけないのか。それは現実が私たちの精神の自由を、固有の思考を奪う存在でもあるからだ。『現実脱出論』とは、思考の独立宣言である。
 
 現実という一つの生命体は一人歩きをはじめ、今では個人の思考が創造として芽吹けるような隙間を見つけるのが困難になっている。そのために僕たちは、現実以外に生きる場所はないと誤解し、たとえ現実に対して疑問を持ったとしても、その問い自体に蓋をするしか方法がなくなってしまった。
 たしかに元々、現実は人間にとっての生命維持装置であった。しかし、現状はどうか。今は、集団という巨大な匿名の生命を守ろうと、個々人が必死になっているように見える。
p172

自ら創造する思考=空間の自由を奪われた個人は、動物園の動物のような、生ける屍である。そして、毎年何万人もの人が、自らの心の居場所を見つけられず、命を絶っている。そのような社会の趨勢は、今後一層厳しいものとなってゆくことだろう。しかし、時代の変化に敏感である坂口恭平は、こうした動きを行うのは、国家権力そのものではないと指摘する。
 
 今後、集団という概念はさらに拡張し、個人の匿名化はどんどん進んでいくだろう。かつ、国家という集団を保持するための警備はますます強化されると考えられる。
 そのため、個人の思考の発芽を、集団はできるだけ排除しようとするはずだ。それは国家権力によって行われるのではない。個人の中にある集団への志向が、思考という巣を破壊しようとするのだ。
p175

インターネットにより世界の隅々まで可視化される時代に、私たちがそこにユートピアを創造するのも、ジョージ・オーウェルの『1984』のようなディストピアを創造するのも私たち次第である。人々が大量に自らの命を絶つ世界とは、すでに個人の思考が自滅してしまった社会であるだろう。

このように精神の自由と芸術的創造の関係を明確にした『現実脱出論』は、詩的文体と高度な理論が一体となった坂口恭平の最高傑作であるだけでなく、今年一番の新書であり、世界レヴェルの名著である。その精神の系譜には、「見者の手紙」を書いたアルチュール・ランボー「シュールレアリズム宣言」を書いたアンドレ・ブルトン『嘔吐』のサルトル、そして「本当に大切なものは目に見えない」というメッセージを伝えた『星の王子さま』サン・テ・グジュペリが挙げられるだろう。さらに、思考としての空間、巣という概念は、ドゥルーズ=ガタリの巣穴やリゾームにきわめて近い概念である。そして、そのコミュニケーション論は、ドゥルーズの最終到達点である『襞 ライプニッツとバロック』と、完全に同一でないとしても、多くの類似点を持っている。

ハンナ・アーレントのような人物が人間の条件について語れば、日本人はありがたい真実だと認識するが、気のいい隣の兄ちゃんのような坂口恭平が語ったとしても、多くの人はエクセントリックな発想のクリエーターが、躁鬱病の波に任せて、自由奔放な創作理論を語っているとしか思わないであろう。だから、坂口恭平の正当な評価には、たとえば英語やフランス語に訳され、向こうのアートの世界や思想の世界で爆発的人気を博し、逆輸入される―のような手続きが必要なのかもしれない。五年先か、十年先かわからないが、その時こそ、時代は坂口恭平のものとなるだろう。世界の多くの人々も、『現実脱出論』を必要としているにちがいないからである。

もう一度あえて言う。『現実脱出論』は坂口恭平の最高傑作であり、世界レヴェルの名著である。

関連ページ:
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コメント
from: 佐藤   2015/04/22 1:45 AM
はじめまして!
坂口恭平さんと、同じ、躁鬱病当事者です。この本は、面白いですね! 坂口さんは、躁鬱病当事者にとっても、光です。
東北の坂口恭平さんファンより。
Yahooブログで
「こうちゃんの躁鬱日記@当事者研究」書いてます。
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