つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< May 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
坂口恭平『坂口恭平躁鬱日記』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略 Ver.2.01


 

『坂口恭平 躁鬱日記』は、全部入りのもんじゃ焼きなのか?

『坂口恭平 躁鬱日記』(医学書院)は、坂口恭平の最も面白く、そして危険な本である。

なぜ、面白くて危険なのか?

『坂口恭平 躁鬱日記』は、坂口恭平の子育て日記であり、夫婦日記であり、交友記であり、創作日記であり、旅行記であり、そして通院日記であり、坂口恭平のすべてが入っているからである。単にはいっているだけではない。それらすべてが、フラットな世界に置かれ、それぞれの世界が分化しながら、偶然に任せて交差する。いわば、豚肉も、牛肉も、たこも、いかも、えびも、玉子も、そばまで入った、全部入りのもんじゃ焼きのようなものである。

ここには、鬱病の暗さはほとんどない。なぜなら、坂口恭平には、鬱病時の思考の記憶はあっても、その時の言動の記憶はほとんどないからだ。この日記を含めて、原稿がはかどるのは躁状態の時に限られる。だから、妙に明るい。そして、スーパーマンのような行動力がある。そこでは、偶然の世界が必然へと変わる。道で出会ったひげを剃ってたおじさんも、旅先のベルリンで警官に尋問され窮地を救ってくれた女性も、いつの間にか、まぎれもない坂口恭平ワールドの住人になってしまう。
 
 アオを自転車の後ろに乗せて熊本城の堀端を走る。水飲み場でひげ剃りをしているおやじがいる。アオに「外でひげ剃りをしているおっちゃんを見かけたら、その人はたいてい面白い人だから、俺は話しかけるんだ」と伝え、おっちゃんに話しかける。
 アルミ缶の値段の違いを知って、別府から熊本に訪ねてきたという。熊本は一キロ一〇〇円まで上がってきたのだが、別府は五〇円だという。また情報を獲得した。千円札を渡した。金しか渡せずにすみませんとギャグを言ったら、「お前さん面白いねえ、感謝」と言われ受け取ってくた。金ってなんだろうね。
(…)熊本で二人目の路上の友人である。
(p20)[ママ]
 日が照ってきてアオが暑いと言うので木陰を探すと、小ぶりの楠が見えたので、そこへ向かう。すると先客がいた。僕とアオは顔を見合わせたが、黒いジャージを着た男はびっくりもせず、こちらに座んなよと手招きしてくれた。
 彼は三九歳の木村雄一という男であった。造園、大工、農業を三〇年近くやっていると言っている。ということは九歳からじゃないか。この男は嘘を言ってるのだろうか。しかし、こんないい場所を知っている男は嘘なんかつかないのである。名刺などない僕の人生は、こうやって里見八犬伝的に始まる。
(p26)

 「坂口恭平といいます」と僕は彼女に伝え、右手を出した。
  握手した手はフーに似ている。優しい顔をして、まっすぐ僕に向かって彼女はこう言った。
「はじめまして。私はマリアよ。私もあなたとあなたの奥さんと同じ三五歳。そして同じ三五歳で躁鬱病の彼氏がいるの。なんか不思議な出会いね」
(p131)


まるで、『ONE PIECE (ワンピース)』の世界である。異形、異能を持った個性的な住人が次から次へと増えてゆく。世界は、何と豊かな驚きに満ちていることだろう。しかも、時々ドイツや尾道、鹿児島へと遠出するものの、その世界の大半は、熊本の坂口亭を中心とした半径数キロの範囲で展開されるのである。

もちろん、いつまでも多幸感をともなった躁状態が続くわけではない。やがて、暗い鬱の状態がくると、坂口恭平は原稿を書くこともできず、寝床も離れず、子供と遊ぶことも嫌がり、心は暗い闇の中へと沈んでゆく。それは、黒バックの「鬱記」となって、躁状態の記録とは切り離され、ページの間に入り込むのである。

鬱記の中で、坂口恭平は、太宰治のように、芥川龍之介のように、アルチュール・ランボーのように、ライナー・マリア・リルケのように、文学している。絶望感、自己への懐疑、慰め、励ましが交互に来て、その中で堂々巡りしている。
 
 苦しんでいる。いっそのこと死にたいと思っている。でも、これは鬱状態だからそう思っているだけなのである。そこを我慢して、またフラットに戻るという希望を持って生きていかなくてはいけない。今、駄目でも、すべてを捨てるのではなく、今、できるということをやるという風にしていかなくてはいけない。p127

そして、書くことへの絶対的な要請が来る。
 
 毎日書く、それしか次の道はない。そのことに気づく必要がある。もちろん書き終わったら、気楽に酒でも飲みに行けばいいのである。でも、まず書くこと。書くことでしか僕は社会と関われないのだから、そのことに自信を持てばいいのである。悩む前にとにかく書くこと。家族との時間はそれ以外の時間で見つければいいのである。そして、僕の仕事のパートナーとして、妻にはちゃんと相談に乗ってほしい。それは思う。とにかく、書くのだ。それしか方法がない。(p244)

書くことのみが、坂口恭平を救済し、生きることを可能にさせる。生き続けるためには、書き続けるしかないのだ。

坂口恭平はレインボーマンである

躁と鬱を繰り返す坂口恭平のこのリズムは、かつてテレビドラマ化された、川内康範原作の『レインボーマン』に似ている。レインボーマンの正体であるヤマトタケシという青年は、インドの山奥で、ダイバ・ダッタというヨガの仙人みたいな爺さんと出会い、修行して超能力を身につけ、レインボーマンに変身できるようになる。レインボーマンは七つの姿に化身することができる。ダッシュ1は月の化身、ダッシュ2は火の化身、ダッシュ3は水の化身、ダッシュ4は木の化身、ダッシュ5は金の化身、ダッシュ6は土の化身、ダッシュ7は太陽の化身である。つまり、レインボーマンは月火水木金土日という、七つのレイヤーを持ったヒーローなのだ。しかし、レインボーマンには致命的な弱点が存在する。「ヨガの眠り」というやつである。この眠りが襲ってくると、レインボーマンはその力を失い、眠りにつく。たとえ自分やその周囲の大切な人が、宿敵である死ね死ね団に襲われ危機に陥ろうとも無力、無抵抗である。眠りから覚めるまで何もできないのだ。

建築家、画家、音楽家、エッセイスト、小説家、新政府大統領、命の電話、零亭ー坂口恭平は色々なレイヤーを次々に展開し、思いついたと思ったらあっという間に形にしてしまう。本当は本人は好き勝手をやっているだけなのだが、それが社会的なかたちになってしまう。だから、躁状態の坂口恭平は、無から有をつくり出すレインボーマンのような超能力者なのである。

ところが、鬱状態になると、この全能性は完全に失われ、意識と無意識の間をさまよい、どの分野でも使い物にならなくなるのである。突如ヨガの眠りに襲われたレインボーマンのように。あるいは、カフカ『変身』の中のグレゴール・ザムザのように、動けない虫になる。
しかし、グレゴール・ザムザとの大きな違いは、坂口恭平は家族に見捨てられないということである。フーと呼ばれる奥さんがいる。アオと呼ばれる5歳の長女と、と呼ばれる生まれたばかりの長男がいる。彼らにとって、坂口恭平のこの変化は天候の変化のようなものとして受け取られる。フーは特に寛大である。死にさえしなければ、浮気以外何をやってもいいのだ。地域の人にも、出版社の人にも見捨てられない。幼稚園児にも、幼稚園の先生にも、坂口恭平は、躁状態に戻ると、「あっ、アオちゃんのパパ、元気になった!」と暖かく迎え入れられるのだ。

この豊かなセイフティネットがあるがゆえに、坂口恭平はヨガの眠りのような鬱状態が来ても、絶対絶命のピンチとはならない。それどころか、病院に行っても、主治医は躁鬱病をネタに文章を書き、お金を稼ぐことを推奨する。
 
「だって、あなたの場合、躁鬱の波を利用して仕事をしてお金を稼いでいるからね……」
 それでも僕は、もうこんな大波に乗った状態で生きていくのはつらい。だから真ん中に持っていってくれと懇願する。しかし、先生は笑いながら言う。
「あなた、この躁鬱でごはん食べていってるんだから駄目よ、真ん中にしちゃ」
 僕の創造性を潰そうとしないというか、逆にもっとやれと言うのだ。
(p73)

かくして鬱病もまた資本化される。躁鬱資本主義。有限会社坂口恭平。あるいは、J.G.バラードのSFにならって夢幻会社(unlimited dream company)坂口恭平というべきだろうか。

坂口恭平はブラック・スパイダーマンである

ここで、坂口恭平を説明する第二の仮説が浮上する。それは、サム・ライミ監督の『スパイダーマン3』の中のブラック・スパイダーマンである。スパイダーマンのスーツに寄生した液状化した宇宙生物は、スパイダーマンをブラック・スパイダーマンに変える。ブラック・スパイダーマンは、スパイダーマン以上の能力を持ち最高の気分を味わえるが、それは中の人であるピーター・パーカーの行動さえも暗く、邪悪なものに変えてしまう。やがて、良心に目覚めたピーターは黒いスーツを脱ぎ捨てる。こうして引き離され、より強大になった宇宙生物は別の人間にとりつき、強大な敵ベノムとなる。

坂口恭平の作品は、いわばこのピーター・パーカーから引き離された宇宙生物のようなもので、それは読者にとりつき、別の存在へと変えてしまうのである。真黒なその存在は、たとえばこんな形で私たちの前に現れることだろう。



黒いスパイダーマンが、苦痛のうめきとともに、元のスパイダーマンに戻るとき、生み出される黒い分身が坂口恭平の数々の本である。

鬱状態がなければ、現在の坂口恭平は存在しない。作品の深い奥行きがなくなってしまうのだ。それゆえ、フーは、鬱状態である黒い坂口恭平と、躁状態である白い坂口恭平を同じように愛し、白い坂口恭平は黒い坂口恭平に嫉妬する。そこで、フーは白い坂口恭平に、黒い坂口恭平に手紙を書けばと提案する。このくだりは、『坂口恭平 躁鬱日記』の中でも最も感動的な部分で、涙なしには読めない。だが、その素晴らしい部分は、これから読む人の楽しみのためにとっておくことにしよう。

さらに、娘のアオは、絵の中で、ブラック・スパイダーマン仮説の上を行く、坂口恭平ワールドの新たな図式理解を提示するのである。白い坂口恭平、黒い坂口恭平につぐ、第三の坂口恭平というモデルである。

つながりすぎてはいけない

坂口恭平の生きる視野角は、私たちの視野角よりもずっと広い。我々が30度くらいとすれば、坂口恭平の視野角は160度くらいある。ちょうどリコーの新しいデジカメWG-M1の16.8mmくらいの超広角である。私たちも同じくらい広い範囲を知覚しているのだが、見ていながらそれが存在していないようにふるまっている。これが、私たちの生きる「現実」というやつである。しかし、坂口恭平はその広い視野角の中の存在をすべて認めてしまう。そして次々につながりを持ってしまう。これが躁状態のメカニズムである。

生きている限り、私たちの周囲の世界は、様々な輝きや喜びに満ちている。その一部にのみ焦点を充てるのが私たちの現実。その焦点と共感の範囲を目いっぱい広げようとするのが坂口恭平の世界。だから、坂口恭平の世界には、同じものや人を前にしても、より多くの人やものとのつながりがある。そして、目に見えないものさえも見えてしまう。『星の王子様』の中で、サン・テ・グジュペリは言った。「本当に大切なものは目に見えない」と。王子に、羊のスケッチをねだられた「私」はいろいろな絵を描いても満足させることができず、最後には穴の開いた箱を描き、その中に羊はいると言って、王子を満足させてしまう。そして、同じようにして、西洋の城をアオにねだられた坂口恭平も、このわがままな王妃の望みをかなえてしまうのである。
 
「アオ部族の城が完成いたしました」
「なぬ?それは本当か?」
アオはまだ疑いの目で見ている。そこで坂口恭平は、アオを押入れの中へと案内した。手には寒中電灯*を持っている。おそるおそる押し入れの布団に乗ったアオに、彼は小箱を手渡し、上から懐中電灯を差し込み、こう言った。
「王妃、中をご覧ください」
 アオが覗いた小箱の中には空間がつくられ、手前にはおそらく坂口の郷であるだろう、坂口家の小さな小屋があった。そこからイエローブリックロードがくねくねと蛇のように伸びており、いくつかの森を抜けたいちばん奥に、青空をバックにしてコットンによる雲が配され、ピンク色のシンデレラ城風の段ボール製の城が聳え立っている。(…)
 押し入れの中に感嘆の声があがった。それは坂口恭平の、宮廷画家としての職能を果たしたことの証明であり、確実にそれは勝利をも意味していた。芸術が体制を、肥大化する欲望を、たしかに抑えたのだ。
(p218)(*ママ)

つまり坂口恭平の世界とは、子供の世界特有のヴィジョン、幻視性をそのまま大人の世界に拡張したものである。こうした知覚の拡張性を、世界で出会う人やもののことごとくに適応すれば、やがて過剰な情報は脳の容量を超え、オーバーフローの状態になってしまう。だから、意識/無意識がその情報を処理し、統合するために、世界とのつながりという活動を休止した鬱の状態が必要となるのである。

フー・イズ・フー?

しかし、坂口恭平の躁と鬱は、この日記の主要な登場人物であるフーという存在によってunder controlの状態にある。一見、無限に、多方向に広がりを見せるかに見えた坂口恭平の世界のレイヤーも、実は彼女により、周辺を切り取られた状態にあったのだ。タバコもダメ。新政府もダメ、いのちの電話もダメ。零亭の住人も増やしてはいけない。

完全に放置すれば、坂口恭平のみならず、坂口家がリアルな接続過剰の状態に陥り、財政破綻、収拾がつかなくなることを彼女は熟知している。そこで、お釈迦様のように、呪文をとなえ、この孫悟空=坂口恭平を、結界の中に封じ込めてしまうのである。本人は、自由に世界を飛び回っているつもりなのに、行った先はフーの手のひらの上だったというわけである。

『坂口恭平 躁鬱日記』を読んだ人は、一体フーとは何者なのか、フー・イズ・フー?という謎にとりつかれるのだが、第三部の謎の女、フーを読んだ後でも、謎は残り続ける。そして、いつしか一冊の本が彼女について書かれるであろうことが、予告されるのである。

坂口恭平の躁鬱病は、フーによってunder controlの状態にあり、そのようなかたちで、夢幻会社坂口恭平は正常運転され、黒字で一年を乗り切れたことが喜びを持って語られる。フーとは、いわばこの会社のCEOである。
 
 で、それで坂口家やっていっているから、すごいかもね。税金、きのうも二〇万円以上払ったからすごい。金は減るばっかりだけど、それでもまだ残っているし、あっそうだ、七月二一日、新刊出るんでしょ、『幻年時代』?やった!また印税入るじゃん!えっ?八月二一日も『モバイルハウス三万円で家をつくる』って新書出るの?おーいいじゃん!坂口家、今年もサヴァイヴできそうじゃん!(p235)

かくして、一見収拾のつかないもんじゃ焼き的カオスに陥るかに見えた『坂口恭平 躁鬱日記』も、最後まで読み切れば、きれいにお好み焼きとして焼きあがっていることに気がつく。一つには、それは根気強い編集者のおかげであるが、やはり最大の功績は、フーという女性にある。フーとは、この全部入りのお好み焼きをまとめ、整えるつなぎの存在なのだ。

関連ページ: 
坂口恭平『徘徊タクシー』
坂口恭平『坂口恭平のぼうけん 1』
坂口恭平『TOKYO一坪遺産』
坂口恭平『モバイルハウス 三万円で家をつくる』
坂口恭平『幻年時代』
坂口恭平『思考都市』


コメント
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://mkamiya.jugem.jp/trackback/364
 

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.