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平野啓一郎『透明な迷宮』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略


 
平野啓一郎の最新中短編集『透明な迷宮』(新潮社)は表題作を含む六つの物語からなっている。何も隠してはいない。すべては明晰に言葉によって示されている。しかし、いずれの物語も謎めいていて、真理の奥行きを感じるがゆえに、一度読んでも何かしら見落としがあるのではないか、早急な間違った解釈をしてしまったのではないかと、目を凝らし再読せずにはいられない。そのような珠玉の中短編から構成されている。一冊の本を編み、ページを埋めるための、抱き合わせ的な物語が一つもないのである。

全体を通じてまず感じ取られるのが、多様かつ周到な場所の設定である。第一の物語「消えた蜜蜂」は山陰地方のとある小村。第二の物語「ハワイに捜しに来た男」の主人公は、オアフ島からハワイ島にやってきたばかりだ。第三の物語「透明な迷宮」は、ブダペストと日本(東京)で展開する。第四の物語「family affair」は関門海峡に近い福岡県のある町周辺で展開する。第五の物語「火色の琥珀」はとある地方と場所はぼかされているが、京都や小豆島など主人公とその家族の関連する場所は示され、漠然と地域の限界を暗示している。最後の物語「Re:依田氏からの依頼」は日本(成田および東京周辺)とパリで展開する。明確な場所の設定、漠然とした場所の設定の双方が、主題との関わりで、きわめて意識的に選択されているのである。

語りのスタイルも、物語を個別化し、個性化するために、細かく工夫されている。「消えた蜜蜂」は「僕」で始まる一人称、主題となる人物はKと呼ばれている。「ハワイに捜しに来た男」は「俺」による1人称だが、名前は示されていない。「透明な迷宮」は三人称で、岡田、ミサと人物の名前が一応示されている。「family affair」は三人称体で、古賀惣吉、登志江、ミツ子など、人物の名前が明示されている。「火色の琥珀」は「私」による一人称で、やはり人物に名前がない。「Re:依田氏からの依頼」は、地の文は三人称で、依田総作、大野などの名前が示されている。後半出て来る作中作は、依田氏の依頼に応えた大野の作品で、「私」による一人称体だが、人物の名前は明示されている。一人称はすべて男性で、「僕」「俺」「私」という異なる言葉で示されることで、作品世界の雰囲気、イメージは意識的に塗り分けられているが、この点に関して、著者はかつて次のように語ったことがあった。その一部を引用しよう。
 
 日本語の一人称代名詞は、極めて相対的なものである。それは、他者との関係に於いて、前述のように「私」、「僕」、「俺」、「自分」と、様々に形を変えるものであり、逆に言うと、他者の存在を欠いた場所では決定不可能である。私が心中で「俺」という時、私は語り掛けるべき相手である「他者なる私」への遠慮の要らない親しさによって、その一人称代名詞を用いることが出来、まさしくその親しさの故に、私は、「私」という一人称代名詞に違和感を覚える。
 こうした一人称代名詞とその本人との結びつきの稀薄さは、何時、いかなる場所で、いかなる他者を前にしても、自分自身は「I」である英語や「JE」であるフランス語にはない日本語独特の性質である。

(『モノローグ』「日記のための日記 一人称代名詞を巡る考察」pp314-315)

日本語においてのみ区別された「僕」「私」「俺」といった一人称代名詞は分人化の指標であり、翻訳不可能な世界である。その選択は、語りうるものとそうでないものを選別し、物語世界の輪郭を規定するのである。

以下の一段落は物語の核心に触れるので、本書の購入購読を予定している方は、現時点ではスキップして読むことを推奨しますが、念のため実作を読まずして理解できないように、意図的に細かい説明を省いた不親切な書き方をしてあります。

前置きが長くなったが、六つの物語に共通しているのは、出来事の暴力性である。そこに他者が介在する場合もあるが、必須ではない。自らの選択による行為が呼ぶ暴力性は、むしろ運命とか性(さが)とか呼ばれるものであろう。著者が多用する「分人」の概念でそれぞれを説明すれば次のようになる。「消えた蜜蜂」における、他人の筆跡を忠実にコピーする類まれなる能力を持った男を運ぶ悲劇的な運命の力−それはまさにエクリチュールによる際限のない、分人化の物語である。三島由紀夫の「金閣寺』や『仮面の告白』を髣髴とさせる「火色の琥珀」の中の、女性を愛することも、男性を愛することもできず、火のみを愛する男のたどる運命も同様だ。「ハワイに捜しに来た男」では依頼を果たそうとする分人が、あるところからいつのまにか本人とすり替わってしまうのである。「透明な迷宮」では、ブダペストで強いられた性行為のトラウマをカップルはかかえることになる。だが、それを乗り越えるための行為は次の問題を生む。一人の女性を愛しているはずの分人が二つに分裂してしまうのである。ブダペストがドナウ川西岸のブダとペストからなる双子都市であるのと同様に、岡田が愛するミサもまた美里と美咲との間に引き裂かれるのである。「familiy affair」では、父親の遺品整理の際に発見された一丁の拳銃が、家族の肖像を浮き彫りにし、ちょうどヒッチコックの『ハリーの災難』のように、その始末を巡って、家族を、女たちを翻弄する。どこにでもいそうな田舎の普通のおばさんたちが、想定外の分人化へと駆り立てられることになる。「Re:依田氏からの依頼」では、小説家大野が再会した劇作家、依田はある不幸な出来事に出会い、その顛末をまとめるようにと依頼される。書かれた物語を、依田氏は自らの分人として受け入れるのだろうか。ここでも、「透明な迷宮」における姉妹の代補の問題が、涼子とその姉、未知恵の対となって、幽霊のように出没、再帰する。ちなみに、大野という人物は『あなたが、いなかった、あなた』に所収された『フェカンにて』にも登場する。両者は、ショパンとドラクロワを描いた小説の著者であるという点で、共通点を持ち、さらに今作では著者の三島由紀夫への傾倒や演劇への関わりをも共有する形となっている。それをモデル小説とするのは、余りに粗雑な考え方である。大野とは、リアルな所与のディテールを散りばめることで、そうした誤解を逆手にとって、その上でフィクションを構築するための模像(シミュラークル)なのである。

平野啓一郎が、人間論の新たな認識フレーム、そして文学の創作上の導きの糸として、多用している「分人」とは、別の言葉で言えば、ドゥルーズ=ガタリの生成変化、n個の性を、個人の分節の視点からとらえたものである。人や、物との出会いとともに、人の行動は変化し、想定外の方向へと進むこととなる。その衝動的な力が、数々の悲劇や悲喜劇を生むことになる。そのようなものとしての、Kの蜜蜂=生成変化、和菓子店主の炎=生成変化。

『透明な迷宮」は、愛の物語であるが、単純な人と人の愛の物語ではない。人ならざるもの、あるいは人の分かれたものへの愛と絆の物語である。そして、世界に偏在するこれらのドラマは、人間が人間のみならず人ならざるものへと持つ関係性や情念の中で、ずっと透明な迷宮を作り続けてきたのである。私たちが、六つの物語のディテールに、繰り返し、目をこらさずにはいられないのはそのためである。

『滴り落ちる時計たちの波紋』『あなたが、いなかった、あなた』のような、実験的なスタイル上の試みはもはやなく、オーソドックスな物語の形でまとめられた『透明な迷宮』は、ボルヘスの『伝奇集』にも並びうるような、平野文学の最高レベルの達成である。
 

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