矢野久美子『ハンナ・アーレント』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
毎月、数十冊もの新書が刊行されるが、売りやすいフォーマットであることもあって、中には数時間のインタビューを構成するだけで作り上げたお手軽なものも多い。しかし、他方では紹介したばかりの『エピジェネティクス』や『同期する世界』のように、トップクラスの識者の最新の叡智を結集したような良書も存在する。矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書)もまた、アーレントの多くの著作の翻訳書を送り出している研究者による、渾身の一冊である。わずか200ページばかりの新書の中に、ハンナアーレントの69年間の人生と思想が凝縮されている。時には、なんとも重苦しい気分で読み進めねばならないページもあったが、読み終えるころにはアーレントのすべての経験と思索が身体の中にしみこむような錯覚を覚えさえした。
ハンナ・アーレントほど激動の時代を生き抜いた知識人も少ない。その足跡は、20世紀を代表する著名な知識人たちの星座の間に超新星の如く輝きながらも、人生としては苦難の続きの、ほとんどの受難の歴史であり、決してうらやまれるようなものではない。薄氷を踏むような選択の連続であり、ほんの少しその選択がずれていたら、私たちが知っているハンナ・アーレントはこの世に存在しなかったであろう。
ユダヤの家系に生まれながら、若い頃より才能を発揮し、ハイデッガー、ヤスパースの知遇を得、やがてハイデッガーとの関係は恋仲にまで発展する。しかし、ナチスドイツの台頭にとともに、ハイデガーとは袂を分かつ一方、ヤスパースを生涯師と仰ぐことになる。ユダヤ人に対する迫害は彼女の逮捕という形で現れ、1933年にはパリへと亡命、多くの知識人と知り合うが、そこも安住の地ではなかった。パリがドイツ軍に手に堕ちるに及び、1940年にはギュルス収容所に5週間抑留後、1941年にアメリカへと亡命する。その途中で、盟友のベンヤミンは、逃げ切ることができずに、自ら命を絶つことになる。このくだりは、本書の中でも最も悲痛な一節となっている。
アーレントのような、アメリカへ亡命した知識人を待っていたのは、まず経済面での自活の苦労であった。英語を身につけ、英語を武器に戦えるようにしなければならなかった。第二次世界大戦が終わると、今度はマッカーシズムの嵐が吹き荒れる。ナチスドイツのファシズムと同時に、ソビエトロシアにおけるスターリニズム、マッカーシズムに通底する、全体主義の脅威を肌で感じ取ったアーレントは、1951年に『全体主義の起原』を、そして1958年には『人間の条件』を出版する。
ナチスドイツのアイヒマンの裁判を傍聴する中で生まれた『イェルサレムのアイヒマン』(1963)は、激しい議論を引き起こし、ユダヤ社会を敵に回し、多くの友人をも失う結果となった。人々はアイヒマンを、極悪非道の人間と考えようとしたが、アーレントはアイヒマンは、思考の欠如した凡人とし、それを政治システムの問題としてとらえようとした。どんな人間もアイヒマンになりうるという考え方は、今日では珍しいものではないが、当時としては受け入れられるものではなかったのである。
プリンストン大学、カリフォルニア大学、シカゴ大学などアメリカの多くの大学で教えながら、1975年に死ぬまで、アーレントは『過去と未来の間』(1961)、『革命について』(1963)、『暗い時代の人々』(1968)、『暴力について』(1972)などの重要な著作を世に送り出す。しかし、1980年代半ばまでは、彼女の著作も絶版になるような状態が続いた。その間も脈々と読み継がれたアーレントの著作は、1990年代になり、ようやく再評価の機運が高まった。そして、2012年にマルガレーテ・フォン・トロッタ監督による映画『ハンナ・アーレント』が公開され、昨年日本でも公開、大きな話題となったことは記憶に新しい。
日本国内だけでなく、世界でも、グローバリゼーションに対する反動で、自閉的な国家主義や全体主義へと世の中が流れ、メディアもその機運の歯止めになるどころか、商業主義ゆえに迎合しがちな時代において、個人の多様性が廃棄され、一つのイデオロギーによって社会全体が塗りつぶされることに対する警鐘を鳴らし続けたアーレントの著作は、今こそ読まれるべき思想書であるだろう。