つぶやきコミューン

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外山滋比古『乱読のセレンディピティ』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略



『乱読のセレンディピティ』(扶桑社)は、184万部を売った『思考の整理学 』の著者、外山滋比古の読書論である。ふだん十冊程度のジャンル違いの本を並行して読み進めている人間としては、読まずとも表題から内容がわかりそうな本である。セレンディピティとは、本来の目的と違った思いがけないものを発見する能力といった意味であるし、読んでみても大きく内容がその予想から外れるようなことはない。

しかし、この本にはいくつか地雷のようなものが仕掛けてあって、それを踏まずに何らかの文章を、この本に関して書くことは難しい。そして、それは奇しくも吉本隆明『読書の方法』で取り上げたのと似たような問題意識に行き着くのである。一つは、「私」は献本はしないということである。

著者が、本を贈らないようにしたのは、年末送った本が新年になっても届かないという不着の事態に出会ったことがきっかけであった。ちょうど郵便配達のアルバイトが年賀状をドブに捨てたという事件があった時期のことである。
 
 自分のことをふり返ってみても、人から本をもらうのは、ありがたさ五分、めいわく五分ということが多い。礼状を書くのがおっくうだし、礼状を書くと読む気がうせることが少なくない。むやみにひとさまに本を贈るのは社交としても、あまり感心したことではない。そう感じるようになった。
 そこへもってきて、送本不着の事故である。いっそのこと本など人にやらなければいい。これからは一冊も寄贈しないということにしようと心に決める。
p10

献本はしないという根拠の一つはもらった本は身につかないという著者の読書に関する信念によるところが半分であるが、もう一つは「距離の美学」というべきものによる。
 
 書いた人間の顔がチラチラするようでは本当の読書にならない。どんなすぐれた著者の本でも、近い人の心をゆさぶるのは難しい。親、きょうだいの書いた本を読みふけるというのはノーマルではない。親しい友人のは本でも著者のイメージをふり払い、じかに本に接するのは困難だ。友人の本のよき読者になりにくい。
 中学以来の友人に読んでほしくないという気持ちは、近すぎるからで、近いものは近いものは近いものによい影響を与えない、という人情に根ざしているものである。
p11

もう一つは同時代の書評の難しさであって、このために著者は書評を書かないのだと言う。
イギリスのタイムズ紙で、50年ほど前に25年前の「タイムズ文芸批評」をそっくり再刊したことがあった。誉められている本がほとんど忘れられ、出たときには突っ込みどころの多かった本が古典に近い存在になっていたりする。その教訓もある。
 
 肩書き付きの実名でする書評が、その本を正しく紹介、批判、案内することはたいへん難しい。せまい専門についての知識をもっているだけで、まっとうな書評ができるとは限らない。
 あまりにも、近い書評家である。あわただしく読んで、あわただしくまとめたような書評が正鵠を射るということはまずあり得ないだろう。
p15

もっとも、著者が書評をやらないと決めたのは「タイムズ文芸批評」の再刊の前である。
 
   かけ出しの研究者に、原稿依頼があるとすれば書評である。原稿用紙二枚半、締切りいついつ、と指定される。なんでもしたい若いうちは二、三度、応じて試みたことがある。引き受けてからが大変。一度だけでは心もとないから二度読みたいがその時間がない。実際、再読したこともあるが、かえって考えが分かれて、まとまりにくい。いつも後味がはなはだよろしくない。
  あるとき、これからは書評をしない、と心にきめて、書評の依頼はすべて断わった。そのうち注文されることもなくなり、気が楽である。p17

私の場合、新刊書評の難しさに関する、こういう文章を読んだからといって、書評が書けなくなることはない。なぜかと言えば、インターネット上の書評は、雑誌や新聞の書評とは異なり、依頼され無理やり書かされる書評ではないからである。読んでも書けそうにないと思えば、やめればいいし、書けそうな時だけ書けばいいのである。もう一つは、<本のイメージ>というものは今の時代、一人の手によって決定されるものではないということである。多くのレビューがインターネット上では見られるし、それに接する中でだんだんと<本のイメージ>というゲシュタルトも集合意識の中で確定していく。一介の書評とは、いわばこの社会的読書という共同作業の一端を担うものにすぎないのである。

以上の二点の留保を除くと、著者の主張はストレートに乱読の価値を称揚していて、文章がリズミカルで、読んでいて小気味いい文章である。著者は、乱読こそが「もっともおもしろい読書法」であると言う。
 
  手当たり次第、本を買って読む。読めないものは投げ出す。身ゼニを切って買ったものだ。どうしようと、自由である。本に義理立てして読破、読了していれば、もの知りにはなるだろうが、知的個性はだんだん小さくなる。(…)
  結局、やみくもに手当たり次第、これはと思わないようなものを買ってくる。そうして、軽い好奇心につられて読む。乱読である。本の少ない昔は、考えにくいことだが、本があふれるいまの時代、もっともおもしろい読書法は乱読である。
pp18-19

16ある章立ての一つを紹介したにすぎないが、この考えは本書全体を貫いていて、より細かい技術などを語っていると思って間違いない。しかし、もう一つ著者は、私たち読書家にとって地雷となりうる概念を持ち込んでいるーそれは、「知識メタボリック症候群」である。この考えは、『論語』の中の孔子の考えに近いものと言える。
 
 知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識は借金でも、知識の借金は、返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもできる。
 読書家は、知識と思考が相反する関係にあることを気がつくゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、もの知りになって、思考を圧倒する。知識をふりまわして知的活動をしているように誤解する。
 本当に、ものを考える人は、いずれ、知識と思考が二者択一の関係になることを知る。つまり、もの知りは考えず、思考をするものは知識に弱い、ということに思い至るだろう。

pp51-52

他人の考えはどこまでも他人の考えである。自分の思考が貧弱になっていることに、知識を追いすぎると気づかなくなる。その端的な例が専門バカである。視野が狭窄にならないためにも、専門外の分野の本にも目を通す可能性のある乱読の方がいいという理屈になる。大体、そういうことである。しかし、本当に考えるべきなのは、思考と知識のバランスである。この問題に対する落としどころを見つけるのは、読者一人ひとりにゆだねられた問題であると言えるだろう。

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