つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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吉本隆明『読書の方法』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略



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今、吉本隆明を読み返すと言っても、『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『心的現象論序説』の三部作は、いささかハードルが高い。それらは時代のコンテキストの中では、大きな意味を持ったものであるが、今の私たちに何か行動の指針を得ることのできる読み手は稀だろう。

戦後の一時期をリードした思想家にして詩人という出来合いの答えを外し、吉本隆明とは何であったかと今改めて問い直すとき、突き当たる答えは、偉大な本の読み手であったということである。本を通じて、社会や国家を論じようとすれば、『共同幻想論』『マチュウ書試論』のような思想書になるし、言語と文学の問題を論じようとすれば『言語にとって美とは何か』のような言語論となる。そして、作家を論じようとすれば『悲劇の解読』のような作家の作品と人生の関かかわりを問う文芸評論となる。本の世界を、学問という枠組みの外で、自由に自分の思考をめぐらせ、体系的に論じようとし、あらゆるバリエーションを試行したことが、吉本隆明という人の著作のバックボーンをなしているのである。

物としての書物

そうした本読みとしての吉本隆明の舞台の上での表向きのパフォーマンスが上に挙げたような代表作とするならば、この『読書の方法 なにを、どう読むか』(光文社)は、一種楽屋裏のドキュメンタリーとして気楽に読むことができるエッセイ、インタビュー、対談など様々なコンテンツからなっている福袋のような本である。決して体系的に書かれた文章ではない。むしろ、ニッチな雑文のコレクションであるが、その分本を読む人としての吉本隆明の本音というものを、正直に伝える等身大の肖像画となっている。舞台裏をのぞけば、そこに見えるのは、増え続ける蔵書に苦しみ、これを処分し、あれは残そうかと日々悶々としている一読書人の姿である。それが、この本の最大の魅力と言えるだろう。
 
 もう十年以上も前に、失業と結婚がおなじ時期にかさなっていたとき、じぶんの蔵書といっしょに他人から寄贈された書物を売り払って<米塩の資>に供していたことがあった。じぶんの蔵書については、買うときにあんなに高価であるものが、こうも安いものかという思いで、やりきれない気分に襲われるのが常のことであった。(「書物の評価」p42)

献本を売り払うことに罪の意識を感じ、寄贈者の名前を剥ぎ取ったらかえって安値になってしまったので、そのまま売りさばくことにした。
 
 そのあげく、えい、ままよ、署名をそのまままに売り払え、これも腹のたしであればやむをえないとじぶんを強いてかりたてて売り払い、ある経路をへて寄贈者ご当人から指摘され、<ああ、おれはこの人から悪党だとおもわれても自業自得だ、どんな弁解もすまい>と心の中でおもいながら、ただただ恐縮の意を表したことがあった。(同上、p43)

その結果決心したのが、ひとつには書物を寄贈するとき決して署名をすまいということ。もう一つは、自分の著書を古本屋で見かけても決しておこったり、不快になったりしないことであった。
 
 なぜなら、書物は、心の糧となりうるとともに、文字通りの<糧>ともなりうるものだからである。(同上、p43)

精神の次元で評価していたものが、物の次元で評価されることもあるのが書物の両義性であり、この意識なしには、書物を考えることはできない。
 
  その頃のわたしには、書物を評価する基準は、いったいいくらで売れるかということであった。この基準からすれば、古今東西の名著をあつめた<何々文庫>というのは、もっとも矛盾の大きい書物であった。内容をかんがえれば、たしかに価値の大きいものだが、売り払えば二束三文でしかない。そこで、どうしてもこの種の書物は売り払いにくいので、自然に取り残されることになった。p44

ここまで来ると、個人の体験を超えて、普遍的な読書人の悩みに通底するものになる。それゆえに、身近な同類としてこの大家の体温を感じ取ることができるである。

それに続く「戦後思想界の巨人の頭脳が映し出された書棚」というインタビューも、本の物的側面との付き合い方に、吉本隆明が苦慮しているさまがうかがえて面白い。

買ったはずの本を探そうとすると半日がかりの作業になることもある。しかたなく同じ本を買う羽目になることもある。こんなバカなことはないと本棚の整理に着手しても、絶対的な空間の不足はいかんともしがたく、たちまちのうちにもとに戻ってしまう。どうすればいいのか。
 
 ひとつは、いちばん単純ですっきりした方法で、この駄本の山や本棚のなかの行列本をみんな売りとばしてしまうことだ。
 ただ心理や心情のうえでいくつかの壁をこわしてしまわなくてはならない。
まだ愛着がのこっているとか、中味がいいけど売れば二束三文で、こん畜生!というおもいを青年期から味わいつづけてきたとか、親しい知人の著書だとか、これは天敵の本でいつかまとめてやっつけてやるとか、壁の数はいくつもある。
 そして、こんな理由を挙げているようじゃ、とてものことに売りとばず決断はできない。

p59

内容への愛着に加え、理不尽な値段や、対人関係への配慮、論敵への想いを、物としての本は同列のものとして呼び覚ます。この既視感が、そのアウトプットの質の次元とは関わりなく、ほとんど著者との距離をゼロにしてくれる。そういう意味で、不思議な幸福感をおぼえる文章である。

書評の自意識

もう一つ、無視できない文章が一つあった。それは「「書評」を書く難かしさ」である。書評は難しく、満足できるものが書けたためしがない。それは、書物の多様なかたちをさばききれないためであると吉本隆明は言う。
 
 書物には、世界とおなじように書き手の所有物がぜんぶ投げ込まれているばあいがある。そうかとおもうと書き手の視えない世界の可視的な模写で、ちょうど地図の国境のようにほんとは存在しない線で境界をつくることが書物になっているばあいもある。また世界の案内図が書物で、書き手はその案内人だから、案内の巧みさや丁寧さが内容だということもある。書評は書物がどんな形でも中身を案内し、評価し、そのあいだに体験した言葉の、快楽や不快や解放感など、感覚的な投影についても記述しなくてはならない。これは不可能にちかいほど難かしい。
 書評をやるかぎりこの難かしさをはじめから避けてしまうわけにはいかない。そこでいつも及ばずながらというところで終わってしまう。
p50

上で書かれている書物の多様な場合を本当に自分が理解できているかどうかはわからない。ただ、書評には、書物の客観的な差異の提示と主観的な感想という二つの表現が、あることはわかる。「書評とは書物を対象に公正な作品を作ることだ」と吉本隆明は言う。あるいは、「公正なということが作品を作ることであるような作品をつくることだ」と詳述する。これは、書物のキュレーションという私の考えとも一致するものだが、その通りに行ったためしがないとも吉本は言う。
 
   ところで実際にわたし自身がやっている書評は、公正などということが作品を作るところまでいくまえに、努力や才能を惜しんで、途中で眼をつぶったままの裁断を繰りこんで終わってしまっている。わたしたちが裁ち鋏を持っているかぎり、書物の中身を裁断することはできる。でも書物を縫うためには運針ということが必要だ。書評の作業は、京友禅だとか大島紬だとかいう記事とデザインを定められた織布を与えられて、縫い上げる注文を受けるようなものだ。書評の難かしさの心理的ないちばんの根拠は、縫い子になりきることの難しさだという気がする。p51

これは「○○の最高傑作である」とか、「この年書かれた最も優れた小説」であるとか言うのは一種の裁断である。そうしたときには、その作品の特性やディテールはどこかへ押しのけられ、評価がキャッチフレーズとして残るのみである。物語や論理のディテールや特性を追い、自分の言葉で簡潔に言い換えることの難しさ。最後までやりきる忍耐の困難。私の場合、縫い子に徹しようして、粗雑な模写を繰り返すだけに終わり、出来の悪いサマリーに終わってしまうこともしばしばである。

書物に対しては、著者に対するのとは別の無償のへりくだりが必要であると吉本隆明は言う。この書評の自意識の表現のみで本書は読む価値がある、そう思えた一冊であった。おそらく、永遠に満たされることのない試みこそが書評という躓きの石なのだ。
 
 書評にこころが動くのは、殺傷したり、切り裂いたりせずに批評をやってみたい、という無償の均衡の願望のような気がする。p52

『読書の方法』のコンテンツとなっているのは、このような本に関する体験論的エッセー以外に、中沢新一荒俣宏を相手にした二つの対談と、いくつもの個人的な本のベストテンの類である。

中沢新一との対話は前半は少女マンガや女流作家にシフトし、後半は吉本の「アジア的なもの」へと論点は移っているが、中心となるモチーフは時代の速度である。そこでも、吉本は「時間や速度に対して残りそうだと思える本と、安い本がだんだん一致してくる」と繰り返している。荒俣宏との対談では「恋愛小説の新しい効用」と題し、まずラブ・ロマンスが兆層概念であることから始めながら、太宰治の『御伽草子』の中の「舌切雀」を吉本は好きなラブロマンすとして挙げている。さらに平安時代の女流文学から、『暗夜行路』、村上春樹まで話は広がり、この対談一本で十分楽しめる内容である。

もう一つの軸となっているベスト10的な内容は、戦後をリードした知識人の地盤形成のための足場のようなものとして参考になるだろう。しかし、「現在を読む」というリストには、サルトル、バタイユ、ロラン・バルト、ブランショ、フーコー、デリダ、ボードリヤールといった現代思想のオールスターのリストが、萩尾望都の『ポーの一族』やあだち充の『みゆき』と並んで列挙されている。このリストのユニークさには、思わず微笑まずにはいられない。深遠な哲学書もコミックも、同じ真摯なスタイルで取り上げるスタンスことこそ、私は吉本隆明から学んだ最たるものであったからだ。

等身大の本の読み手、吉本隆明を知る上では、これ以上に面白い本はない。さまざまな年代でつくられた本のリストも、五十年ばかり広げた時間軸の中で、自分の読書のあり方を問う上では、汲み尽くすことの豊かな泉となってくれる。このリストの全ての本を読むことは死ぬまでに絶対にないと確信できるがゆえに、そう思うのである。

PS 本書の引用ページ表記は単行本版に基づいています。

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