つぶやきコミューン

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内田樹『先生はえらい』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本



内田樹氏の『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)を読んでみました。これは教育に関する本ですが、より広くコミュニケーション一般の本質について述べた本でもあります。かいつまんで話をすると、誰にとってもいい先生なんてのいないし、いい先生とはあなたにとってだけのいい先生だ。先生から学ぶのは先生の中身ではなく、先生が与える謎からである。学びとは要するに、受け手の問題であって、先生運のいい悪いなんてのも存在しないのだ。まあ、そういう内容のことが書かれてある本です。それだけでは何のことかさっぱりわからないので、いろいろとわかりやすい例を挙げながら書いてあるわけですね。

この本は名著です。薄い新書本ですが、内田氏が書いた本の中で、一番の名著ではないかと思います。どこが名著かというと、本来論理的でない教わるということの意味、コミュニケーションの本質を、きっちり論理で説明しているからです。これはアクロバティックな離れ業です。その屈折した関係性を、見事に表現できるレトリックの才能が素晴らしいです。これだけではよくわからないので、具体例を挙げてみます。これは本書中で議論を進めるために存在する数多い例の一つではなく、本書の主題である学びの本質を見事に表現しきった究極の例なのです。

能楽にある張良という男の話です。黄石公という老人から、太公望秘伝の兵法の奥義を授けてあげようと言われて師事しかいがいしく仕えたものの、一向に教えてくれる気配がありません。

 そんなある日、張良が街を歩いていると、向こうから石公先生が馬に乗ってやってきます。そして、張良の前まで来ると、ぽろりと左足の沓を落とします。
 「取って、履かせよ」と老先生は命じます。張良、内心はちょっとむっとするのですが、ここは弟子のつとめということで、黙って拾って履かせます。
  別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った石公先生と行き会います。すると先生、今度は両足の沓をぽろぽろと落として、「取って、履かせよ」と命じます。張良、さらにむっとするのですが、これも兵法修行のためと、甘んじて沓を拾って履かせます。
  その瞬間に、張良すべてを察知して、たちまち太公望秘伝の兵法の奥義をことごとく会得して、無事に免許皆伝となりました。
  おしまい。
pp155-156

これだけの話です。武術や禅の奥義の会得などに関して、似たような話をどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、これまで納得できるような説明を与えたものは皆無でした。しかし、内田氏の説明には納得できるものがあります。

実は、二度続いたことで、そこに何かが隠されていると解釈したのは張良であり、いわば「誤解」にもとづいた張良の一人芝居です。ところが、その時張良が、兵法の奥義とコミュニケーションの本質を同時に会得したのもまた事実なのです。

もう一度、張良が黄石公と遭遇したらどうなるかということから内田氏は話を進めます。

 三度目の(結局は行われなかった)遭遇のことを想像してみてください。
 張良が歩いていると、あちらから馬に乗った黄石公先生がやってきます。もう張良さん、心臓ぱくぱくの緊張状態ですよね。「さあ、どう出るか?」ともう足を踏ん張って、あぶら汗を流して沓をにらみつけている。
 これを武道では「居着き」と言います。
 居着きというのは、足裏が地面にはりついて身動きならない状態を指しますが、こういうふうに「相手がどう出るか?」という「待ち」の状態に固着してしまうのは、居着きの最悪の形態の一つです。「待ち」に居着いている人間は、絶対に相手の先手を取ることができないからです。相手がまず何かしてから、それに反応するようにしてしか動き始めることができない。そういう体制を自分で作ってしまう。(…)「謎」を解釈する立場というのは、「謎」をかけてくる人に対して、絶対的な遅れのうちに取り残されるということです。(…)
 黄石公には100%の行動の自由が許され、張良は限定的な文脈への固着を余儀なくされている。それは「三度目の出会い」の構造です。黄石公必勝、張良必敗の体制ですね。
 張良は、これに気づいたのです。
「あ、そうか。人間はこうやって負けるんだ」ということに気づいたのです。
 それは同時に「必勝の構造」を会得したということです。

pp161-163

長々と引用してしまいましたが、このエピソードの中に本書のエッセンスはすべて含まれています。そしてそのことを内田氏は、「理解とはメッセージの内容そのものを適切に読み解くことではなく、コミュニケーションにおける「誤解の構造」に精通することである」(p164)と要約しています。

どうでしょう?内田氏は、ぼんやりしているようなおじさんに見えて結構すごいじゃないかと思った方もいるのではないでしょうか。そして『先生はえらい』はすごい本だと思った多いのではないでしょうか。でも、それがどうして「先生はえらい」ということになるのか、まだよくわからない、そう思った方は是非『先生はえらい』を読んでみてください。

関連ページ:
内田樹・中田考『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』

  Kindle版



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