つぶやきコミューン

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村上春樹『女のいない男たち』(2)
JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 




『女のいない男たち』(1) より続く】

『女のいない男たち』の特徴

名古屋という場所をクローズアップさせた前作の『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』、あるいは前々作の『1Q84』からの傾向であるが、村上春樹『女のいない男たち』では、一層具体的な地名への言及が増えてきている。世界のどこであるのか曖昧な場所設定によって、作品世界を支えてきた村上春樹としては、大きな変化と言えるだろう。何らかの具体的な地名は、たとえば『東京奇譚集』でもあったものの、必要最低限にとどまっていた。現実世界の生の印象がそのまま作品世界へと流れこむことは、村上春樹の世界において禁忌であったのだ。そうした世界の具体的ディテールを欠いた作風は、彼の作品世界を無国籍的なものにし、世界的にも受け入れられやすいものにしてきた。それまで現実世界の裏地としてのパラレルワールド、ファンタジー的世界であったものが、この作品ではより現実との距離を密にしているように見える。

著者の分身的な存在も、いくつか存在する。たとえば、「イエスタデイ」の語り手谷村は「早稲田大学2年」であり、喫茶店のアルバイトをしている。しかも、芦屋の出身である。そして、「木野」の主人公の木野は、バーのマスターとして東京に店を構えることになる。さらに、「独立器官」の語り手は、物書きである。

これらの変化は、私小説的なものへの接近を意味しているのだろうか。

私小説的なものへの接近というよりも、むしろ世界そのものの変化を意味しているように思われる。インターネットによる情報の無限拡散と増殖の結果によって、固有名詞でさえももはや普遍的なものの記述とはなりえなくなったのである。固有名詞さえも、記号として消費される世界においては、もはや禁忌は禁忌たりえない。村上春樹が翻訳した作品の中で、ニューヨークの地名が普通に出てくるように、この作品の中にも東京の細かい地名がふんだんに散りばめられるのである。

わざわざ作品の中で、世界を二重化するまでもなく、世界はすでに二重化というよりも、多数化されているのである。

世界がすでに<真実>としての様相を失い、すでにフィクションとノンフィクションを混在したシミュラークル化された世界となった以上、もはや現実はフィクションの対立項として機能しない。

ファンタジー的な性格を、村上春樹の作品が失ったわけではない。「木野」の中の主人公は、根津美術館の裏という場所から、そのまま怪談的世界へと移行する。たとえ、それが「高松」や「熊本」という地名に変わろうと同じである。

【以下の内容は各物語の前半の設定・あらすじを含んでいます】

「女のいない男たち」の世界

とは言え、かつてのどの小説にも増して、『女のいない男たち』の世界は、現実世界へと寄り添っている。それは、この国の病そのものである。少子高齢化、格差社会を背景とした晩婚化、未婚男女の増加を背景とした恋愛不全症候群、結婚不全症候群、あるいはより一般的にはコミュニケーション障害といった傾向が社会全般に蔓延している中、本書の内容はとても切実に読者に迫ってくるはずである。現実に寄り添うとは、目の前にある誰にも生じうる現実を描いているということである。『女のいない男たち』の世界は、そのサンプリング小説といえるだろう。

「ドライブ・マイカー」の主人公俳優である家福は、女優の妻を癌で失う。そして、その前に生まれたばかり子供を失っていた。以来、彼女は何人もの愛人を作る。家福は、死後の最後の愛人であった男と、妻の話をする。

「イエスタディ」では、僕が学生時代出会った男、木樽は田園調布の生まれでありながら、阪神タイガースのファンであったために、完全な関西弁を身につけた男であった。彼には幼なじみの栗谷という彼女がいたが、幼なじみである親しさゆえに性的な関係を持てずにいた。

「独立器官」
では、僕がジムで出会った美容整形医師の度会は、独身主義で、ステディな関係を女性と持たぬことをモットーとしていたが、その彼が五十歳を過ぎ本気で恋した時に、大きな変化が生じ、彼の運命が狂い始める。

「シェエラザード」の主人公は、「ハウス」と呼ばれる外界から隔絶された施設で、一人で過ごしており、連絡係の女性が性行為を一種の「支援活動」として行っていた。彼女は、セックスの後で『千一夜物語』のシェエラザードの如く、物語を語るのであった。

「木野」の主人公の木野は、妻の不倫を目の当たりにして、それまでの会社をやめ、バーを開くことになる。会社を辞めたのは、不倫相手が会社の同僚であったからである。彼の始めたバーは当初順調であったが、ある女性客の来訪とともに不吉な変化が生じ始める。

「女のいない男たち」では14歳のころに出会った完全な少女とその後十数年経って再会し恋におちた僕は、彼女の夫からの電話によって、彼女の自死を知らされる。

すべての物語に通底しているのは、女性との間に生じてしまった、あるいは生じつつある亀裂、切断の物語である。そこに介在するのは、三者関係である。三者関係があるがゆえに切断が生じるのか、切断があるゆえに三者関係が生じるのか。

愛することができないこと

あるいは

もはや以前のように愛することができないこと


その切実なメッセージを、『女のいない男たち』は私たちに届ける。これは、恋愛不全症候群、結婚不全症候群を抱えた私たちの社会の男たちの肖像画である。それゆえ、短篇集として異例のヒット作になることだろう。

他者の物語

ファンタジーとして、空想の別世界を切り拓くのでなく、どのようにして『女のいない男たち』は、村上春樹固有の作品世界を支えるであろうか。話し相手を見つけ、自ら語ること、そして他人の物語を聞くことによって、二つの物語の世界を交流させることによってである。

「ドライブ・マイ・カー」の主人公家福は、事故を起こした後視力障害が発覚し、運転手となる女性渡利みさきに自らの愛の喪失の物語を語り、同様に彼女も自らの愛の不在の物語を語る。そして、その中でまた妻の愛人の俳優高槻も、彼女のことを語るのである。

「イエスタデイ」の主人公の谷村は、木樽の物語を聞き、後にその幼なじみのガールフレンド栗谷えりかの物語を聞く。

「独立器官」の主人公は、度会医師の物語を聞き、さらに度会医師の秘書の物語を聞く。

「シェエラザード」
の主人公羽原は、訪問した主婦の物語を毎回セックスの度に聞く。ヤツメウナギだったり、空き巣の話だったりする。

「木野」の中の主人公の木野は、女性客のDVの話を聞き、それがもとで彼女との性行為に及ぶことになる。

そして、「女のいない男たち」の語り手も、失われた彼女のことをひたすら語り続けるのだ。

すべての話は、愛と性の話、愛と性の不可能性の話である。

『女のいない男たち』は、物語の中に物語がある、メタ物語である。

個人の中に生じる変化は、時代の変化を反映している。

愛すること、以前と同じように愛し続けることの困難。

そうした変化を多くの人が感じ続けているならば、愛することの不可能性の物語を読むことは、一種のカタルシスを読者に味わわせ、その結果癒やしをもたらすことになるだろう。『女のいない男たち』が多くの読者を獲得するとすれば、それはこの社会にとって余り幸福なことではないかもしれない。

だが、村上春樹が作品世界を維持し続けるためには、物語の重層化だけでは十分でないようである。

『女のいない男たち』は、ほとんど無数と言ってよいほど音楽が背後に流れる短篇集である。ディスコグラフィー化することによって、この過剰なまでの音楽の世界への流入の様相を次の論考では明らかにしたい。

(続く)

関連ページ:
村上春樹『女のいない男たち』(1)
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
補遺:村上春樹の「名古屋」について


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