つぶやきコミューン

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小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本


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だいぶ前にタイトルと美しい装丁にひかれ買ってあった小川洋子氏と河合隼雄氏の対談『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)をようやく読み終えることができた。期待した以上に素晴らしい内容で、魂の琴線に触れるような深い感動があった。過去読んだ対談本の中で最も素晴らしいものの一つである。

『生きるとは、自分の物語をつくること』は、2005年12月と2006年6月の二回にわたり行われた両氏の対談をまとめたものである。それぞれ.魂のあるところ .生きるとは自分の物語をつくることと題されている。

「魂」とは何か?

小川氏の『博士の愛した数式』がベストセラーになったころでもあり、気梁燭の内容は同書の内容と数学に関するものである。かつて高校の数学教師でもあったという河合氏だけに、数学への造詣も深い。しかし、博士の記憶障害を媒介にして、数の世界が人間の心の世界へと結びつき、深まりを見せるのである。
 
河合分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川数学を使うと非常によくわかりますね。
河合お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。pp27-28

心理学の世界では、魂という言葉を出せばアウトであったが、そろそろ大丈夫かなと河合氏がそれを出し始めたのは1980年代くらいだった。

障害物をすべてとりはらい魂と魂とを触れ合わせる人間関係を作る上で大事なのは、お互い死ぬ者同士であるという自覚、これが優しさの根本である。今の人が優しさを見失ってるのは、自分が100年も200年も生きるような気持ちでいるからである。死ぬ者同士という自覚に基づいた優しさが相互にあれば、一瞬が永遠に思える至福の時が可能となる。
 
『博士の愛した数式』
の登場人物、たとえば博士と少年のルート君の間にある関係性とは、そのようなまじり物のない魂の魂との関係性なのである。同時に、魂だけで生きようとする人は挫折するとも、河合氏は言う。

「書くこと」と「生きること」

兇瞭睛討蓮⊇颪ことと生きることの類縁性、関係性をめぐるものである。
 
小川:臨床心理のお仕事は、自分なりの物語を作れない人を、作れるように手助けすることだというふうに私は思っています。そして、小説家が書けなくなった時に、どうしたら書けるようになるのかともだえ苦しむのと、人が「どうやって生きていったらいいのかわからない」と言って苦しむのとは、どこかで通じ合うものがあるのかなと思うのですが、いかがでしょうか。p46

暗い深淵へと降りて行き、そこから戻ってくるという感覚は、心理学者も小説家も同じであるが、小説家は物語を持ち帰り、心理学者は物語を持ち帰らず、患者に語るに任せるのが違いであると河合氏は言う。

殺したいという衝動があり、実際に他人を、時には自分を殺さないためには、「物語」が必要である。ウェルテルは自殺するが、ゲーテは長生きした。それが物語の本質的機能ではないのか。

もう一行も小説を書けないと思った時に、どこかからニュートリノが飛んできて書けるようになる、それと同じように患者が「ものすごくうまいこと」が起こって患者が治る時がある。そういう時には、自分で書いたとか、自分で治したという自覚もないものである。

物語を作るということは、一神教下では許されない行為であった。人は神のつくりし物語を生きればよいという考えが覆されるようになったのは近代になってからである。多神教の日本では、個人によって多くの物語がつくられた。『源氏物語』は、紫式部に財力があり、スタンダードでない言語の平仮名があったからこそ、女性の手で可能になった物語であった。この『源氏物語』をめぐる対話にも、きらめくばかりの洞察力がみなぎっている。
 
小川『源氏物語』では、光源氏の存在感は、物語が進むにつれだんだん小さくなって、光はむしろ女性の方を際立たせるためのもので、彼は狂言回し的な役になってきますね。
河合そういう「光」を当てる役なんです。
小川:なるほど、光は自分にではなく、女性に当てるということですね。
河合:そうです。僕に言わせると、女性たちは全て紫式部の分身なんですね。その光の当て役として光源氏がいる。確かに彼は光り輝いています。姿は美しく、文章を作っても上手く、絵を描いても上手い。分身たちの美点を描くためには、それらが全部出来る人でないとならん。あんな男が実在するはずがないわけですが、光の当て役としては素晴らしい
。p79

平安時代にはもっと恋愛と死は近接したものであったというところから、物語と死の関係へと関して話は移ってゆく。小川氏は、大勢の人が一度に死ぬという事件を通り過ぎることができないという。アウシュビッツや、御巣鷹山へつい引き寄せられるように行ってしまう。ジャンボジェットの墜落事故の520人の死者には、一人一人物語があった。これはそのまま小川氏の近作『人質の朗読会』のテーマにもなっている。
 
小川そういう事実を、一行一行読んでゆくと、抜け出せなくなります。自分が小説を書いている意味を問い詰められている気持になりました。アウシュビッツでも、亡くなった方々の克明な記録を見ました。どうせまもなく殺すのに、一人一人の記録を几帳面に残しているんです。p98

アウシュビッツのナチスの将校が命令に従っただけで自分は悪くないと主張し続けるのは、それを認めたら自分が崩壊するからである。泣き崩れたらそこで終わりが、キリスト教的世界。日本人は泣き崩れてもまだ人格がある。

そこで一周りして、人間の生の問題、魂の問題へと戻ってくる。ヨーロッパ的な厳密な論理の世界と日本的、東洋的な曖昧なものの世界を、共存させることはできないのか。
 
河合:人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。命というものはそもそも矛盾を孕んででいるのであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾しているんだとか、なぜ矛盾しているんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。p104
 
河合:僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。p105

そして、この個性を支えるものこそ「物語」であるのだ。

あまりに素晴らしい河合節、そのテンションの高まりも絶頂と思えたところで、対談は途切れてしまう。そして、小川氏の「長すぎるあとがきが続く」のである。二度目の対話が行われたのが2006年の6月、その二ヶ月後に河合氏は倒れ、翌年7月に逝去。

この対談は河合隼雄氏が残した、最後の、未完の対談となった。心理学・文学・数学・宗教を股にかけた広範な世界への理解と、人間の生と死に関する深い洞察がこめられた奇跡の対談と言えるだろう。しかし、その内容に一切の悲壮感はない。清澄な悟りの境地と、姿を消した後にも微笑みを残すチェシャ猫のような陽気さでこの対談はしめくくられている。

PS 本書の引用ページ表記は、2008年に出版された単行本版に基づいていますが、現在単行本版は絶版のようです。

関連ページ:
小川洋子『人質の朗読会』
小川洋子『原稿零枚日記』


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