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東浩紀『セカイからもっと近くに』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中一部敬称略



『セカイからもっと近くに 現実を離れた文学の諸問題』(東京創元社)は、ゲンロンを率いる思想家であり、小説家でもある東浩紀氏のー本人の言葉を借りるならばー最初で最後の文芸評論集である。

なぜ最初で最後の文芸評論と呼ぶのか。先行する著作である『動物化するポストモダン』(2001、講談社現代新書)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007、講談社現代新書)では、ゲームやアニメ、ライトノベルといったサブカルチャーに関し環境分析的な批評を試みた東氏だが、この『セカイからもっと近くに』の内容、分析手法もその延長上にあり、特に『ゲーム的リアリズムの誕生』からキャラクターやループ状の時間の問題意識はそのまま引き継がれていると言ってもよい。

不正確な憶測にすぎないが、これらの著作がサブカルチャーというローカルな存在を現代の日本社会をとらえるための思想的な問題としてのアプローチであるとするならば、『セカイからもっと近くに』は、あくまで文学というジャンルにおけるたった一つの最重要課題にこだわり抜き、この問題を掘り下げた著作だからだと言えるだろう。この著作が、文芸評論と呼ばれるのは、単純に問題意識の違いによるものである。

その課題とは何だろうか?

文学と現実との距離である。言うまでもないことだが、表題の中の「セカイ」は、「世界」と同じではない。高橋しんの『最終兵器彼女』に代表される2003年ころから小説やアニメの市場で流行した「セカイ系」の諸作品の特徴は、視点的人物の小さな日常から一気に死や世界の滅亡のような大きな世界へと飛躍し、その中間項である複雑な社会的現実の描写がそっくり欠落してしまうことである。東氏がセカイ系の困難と呼ぶ問題こそが、文学に関する最大の関心事なのである。
 
 セカイ系の困難、つまり「社会が描けない」、「社会を描く気になれない」「社会を描かなくてもよい」というも問題は、オタクやライトノベル、サブカルチャーにとどまらず、いまでは日本全体に拡がっているとぼくは考えます。だとすれば、そのような社会において、これからの文学はどうなっていくのか、もう文学と社会は関係することがないのか、という問題が必然的に出てくる。p18

『セカイからもっと近くに』は、この問題に対し、新井素子法月倫太郎押井守、そして小松左京といった作風もジャンルも異なる四人の作家の作中での選択に注目しながら、このセカイ系の困難の姿をあぶり出し、そこから脱出する可能性、ソリューションを解き明かそうとする一種のミステリである。

そう、四つの事件の謎を解き明かすミステリとして、この評論集はまず読まれるべきである。書籍化にともない可能な限り平易に、読者に語りかけるような語り口に改稿されている点も加わって、『セカイからもっと近くに』は上質のミステリと同様、いったん読み出すと止められない魅力を持っている。

ミステリである以上、ネタバレに注意しなければならない。本書では、ドゥルーズの書名を思わせる4つの章題を何も知らない読者にわかりやすく解説してしまうと、即ネタバレにつながる恐れもある。そのため、本論の最もスリリングでエキサイティングな推論の部分をカットし、その場に出てくる概念を犯行現場に残された手がかりのように関係づけずに即物的に投げ出し、その後の探求は読者にゆだねるというやり方をとることにする。

第一章新井素子と家族の問題では、セカイ系の起源としての作家、新井素子の作品に注目する。最初に、中間である社会の描写(象徴界)をなおざりにしながら、想像界と現実界が短絡しているかのように見える作品『ひとめあなたに…』(1981)の中で、その構図に収まらない部分を抽出しながら話を進めてゆく。そこで重要な役割を果たすのが、家族というモチーフである。さらに作者が作品の中に入り込んでしまう特異な構造を持つ長編『・・・・・絶句』(1983)の中に出てくるキャラクターのあり方に注目する。東氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』で提示したキャラクターの概念とは、一つのキャラクターが複数の物語を横断的に生きるという「メタ物語性」にあったのである。

第二章法月倫太郎と恋愛の問題では、「新本格」の一人とされるミステリ作家、法月倫太郎の作品内における探偵の位置づけに注目する。知的パズルとしてのミステリである法月の作品も、「セカイ系」と共通した、人間や社会の細かいディテールを欠落させるという特徴を備えている。しかし、作者と同名の主人公が探偵小説の意義や犯人と探偵と死体の関係性について思弁を繰り広げるという自己言及性こそが東氏がこの作家を取り上げた理由なのである。「新本格」の問題とは、法月の言い方を借りるなら「後期クイーン的問題」である。つまり、なぜ現実もないのに小説を書いているのかという問題意識である。この袋小路に対し、創作を進める上で法月がどのような解決策を見出したかがこの章で探求される。

第三章押井守とループの問題では、アニメ作家である押井守の二つの作品、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)及び『スカイ・クロラ』(2008)の二作品を原作と対比しながら、そこでのループの問題の去就に注目する。全共闘的問題意識を引きずった押井の場合、何も起こらないループの問題とは、『機動警察パトレイバー2』(1992)に顕著に見られるように、政治的不能性を意味するものであった。押井が見出したソリューション、希望のありかをさぐるこの章は、本書の中の白眉である。しかし、あまりの分析の徹底ぶりに、ネタバレに対する自戒を再三口にしていた著者が、この押井の二作品に関しては、100パーセントどころか200パーセント(つまり原作の世界との根本的な世界観の違いに至るまで)作品世界の謎を光の下にさらす結果になっている。

第四章小松左京と未来の問題では、一見セカイ系とは対極の存在である「社会派SF」の巨匠小松左京を取り上げる。「想像力と現実との切断そのものは、1970年代以降の日本文化全体の問題」(125p)としながら、東氏はまず樋口真嗣監督による『日本沈没』の映画化(2006)は、原作の社会性が欠落し、セカイ系の物語になっていることに注目する。その間に横たわる問題こそ「未来」の概念であった。未来への希望が失われ、未来への無関心が蔓延したことこそ、セカイ系の流行の原因と考えられるが、その小松左京の「未来」が実は、セカイ系の可能性を包含する両義的なものであったのではないかという見立てからこの章はスタートする。まず、取り上げられる作品は、『果てしない流れの果てに』(1966)である。

全体が「セカイ系の困難」に関するソリューションを見つけ出そうとするミステリである以上、東氏の結論がどこに至ったのかをここで語ることはできない。

だが、東浩紀氏が桜坂洋氏との共著である『キャラクターズ』(2008、新潮社)や単著である『クォンタム・ファミリーズ』(2009、新潮社)『クリュセの魚』(2013、河出書房新社)などの小説作品を著し、そこでループ状の時間や、キャラクター、拡張された家族の問題が扱われている以上、『セカイからもっと近くに』は、もう一つの性質、つまり自己言及的な小説の方法論として読むことも可能であろう。東氏が、『セカイからもっと近くに』を最後の「文芸評論」としたのも、この探求において、一つの個人的な解決策、結論が出たということを意味する。その意味で、『セカイからもっと近くに』は、家族、恋愛、ループ、未来の四つのキーワードとともに、東浩紀の小説世界とその変遷の謎を解き明かす合鍵とも言うことができるだろう。

関連ページ:
東浩紀『クリュセの魚』 

  Kindle版


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