つぶやきコミューン

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國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(1)
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略



國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)は、この国で出版されたドゥルーズに関する著作の中で最も優れた包括的論考である。

それが優れているのは、単にドゥルーズを哲学の一つの様式としてとらえるのではなく、哲学における思考そのもののあり方を問うからである。同時に、ドゥルーズを理解することが単なる学問的な議論に終わることなく、われわれの置かれた社会とのかかわりを定義しなおす行為へとつながっているからである。きわめて精緻な國分功一郎の知の営みは、哲学の力を密室に閉じ込め奪うのではなく、外気の中へと、都市へあるいは森の中へと、解放する営みでもあると言えるだろう。

1.ドゥルーズの哲学を語る上で最も重要なのは、そこで語っているのは誰かという語る主体の賓位の問題である。第犠呂「自由間接法ビジョン」において、國分はアラン・パディウの問いを取り上げることから始める。

ただひたすらある対象を解釈しているにすぎない書物に、どうして”思想”を読み取ることができるのか?p14

自由間接話法(style indirect libre)とは、フランス語圏での用語の訳語であり、英語圏での用語の訳語は描出話法(represented speech)である。

たとえば、直接話法でHe said,"I will change the world."は間接話法では、He said that he would change the world.となるが、自由間接話法(描出話法)では、伝達動詞を省略し、He would change the world.となる(本書中の例文とは異なる)。ドゥルーズの著作においては、「ヒュームにとって主体は構成されるものである」ではなく、「主体とは構成されるものである」といきなり書かれるのであり、そこで考える主体は、ヒュームであるのかドゥルーズであるのか明確ではない。さらにドゥルーズにおいては、ヒューム自身において、概念の逐語的同一性が見つからないような形で、それが行われることがある。この場合、ドゥルーズの補助線的な諸概念がヒュームの世界を規定するのであり、それは単にヒュームが言っていることを越えて、ヒュームの諸概念によって規定される世界の潜在性を引き出したものである。このような世界は、後に内在平面(plan de consistence)と呼ばれることになるだろう。

哲学者自身、自ら何を思考しているか、そのすべてを知っているわけではないのだ。思考は、哲学者の意識を越え出る、より広い範囲に及んでいる。p23

一見真面目な学術書の体裁を取っているものの、対象が誰であれ、ドゥルーズがある哲学者について語る時、何か奇妙なことが生じている。「哲学者の意識を越える哲学者の思考」を描き出すことが、ドゥルーズの哲学の本質であり、それを國分は以下のような形で定式化している。

ドゥルーズにとって哲学研究とは、対象となる哲学者がそれとは意識せずに直面していた、あるいは語り尽くすことのできなかった「問題」へと遡り、それを切り開き、その問題が位置づけられている思考のイメージを明らかにすることである。我々が今、問題にしている自由間接話法の多用は、この思考のイメージに到達するために導入された方法だと考えられる。p29

この部分に関する國分の分析は極めて優れた論考であり、本書の要の部分であると言ってよい。第一章を読むだけで、我々のドゥルーズの著作を読む時の、明快さの裏側にあるある居心地の悪さ、割り切れぬ宙ぶらりんの感覚の正体を見極めることができるであろう。

自由間接話法的なスタイルでドゥルーズがある哲学を語るとき、それはその哲学の概念が形成する潜在的なものの総体について触れているのであり、「〜とともに語る」こととはそのようなものである。哲学が与えるビジョンは、付け替えることが可能なメガネのようなものであると『対話』の中でドゥルーズが語ったのもまさにこの意味においてである。

2.第蕎蓮超越論的経験論の中で、國分が取り上げるのは主としてヒュームとカントに関する著作である。主体を定義するにあたって、ドゥルーズ自身まさにヒュームとカントの間で考えている。カントは一点を除いて、正しかった。その誤りとは、主体の発生の問題である。そして、その発生の問題を正しく提起したのがヒュームなのである。

超越論的領野は経験的領野を基礎づけるものである。だが、カントは超越論的領野を描き出すにあたり、経験的領野をちょうどカーボン紙で複写するようにして、「引き写す」。だから、経験的領野とは別物であるはずの超越論的領野に、我々が経験的に知っている「自我」が見出されてしまう。カントの描く超越論的領野は不純である。p48

わかりやすく言えば、超越論的領野には、あらかじめ「自我」の影が密輸入されているということである。ドゥルーズが極めて敏感であり、そして退け続けた思考のモデルとは、哲学史の中でしばしば生じる原因と結果の逆転モデル、汎プラトン主義の思考である。そこでは後から形成されたものが、あたかも初めから主導原理としてあったかのように振舞う。カントを除いて、ドゥルーズが好んで取り上げる哲学者とは、基本的にこうした思考の逆立ちから免れた者たちである。

さらに後半で國分は、超越論的経験論を形成するにあたって、重要な存在であるフロイトを取り上げる。これはやがてガタリとの共著につながる重要な伏線である。

『差異と反復』、特にその第二章では、デカルトのコギトを再検討することでカントが超越論的主体を発見し、その超越論的主体に発生の観点から再検討を加えたのがフロイトである、という哲学的系譜が明確に示されている。p68

ドゥルーズが『快原則の彼岸』におけるフロイトを批判するのも、フロイトが死の原則、タナトスを「想定」しているという点である。原因と結果がここでも倒置されている。

そこまで言うのならば、脱性化されたリビドーである中性エネルギーこそが死の本能を構成する、と言うべきではないか?脱性化されたエロス的エネルギーこそがタナトスを構成する、と言うべきではないか?p79

ここからガタリとの共著における分裂分析まであと一歩である。
 

3.第珪「思考と主体性」で國分功一郎は、プルースト、ベルグソン、そして映画をめぐる著作の方へと歩みを向ける。

ドゥルーズのプルースト論の分析の中から浮かび上がる重要な命題は、思考とは自発的な営みであるどころか、むしろ外から強制されて生まれるということである。人に思考を強制するものは、シ−ニュ(英語のsignに対応するフランス語、記号、合図、しるし)と呼ばれる。
 
 人は思考するのではない。思考させられる。思考は強制の圧力によってのみ開始されるのであり、それを強制するシーニュは常に偶然の出会いの対象である。
 
 ここで問われているのは、思考の発生の問いである。ものを考えるという事態は、いかにして発生するのか?ドゥルーズはそれを「暴力」や「強制」との「偶然の出会い」によって説明する。人はものを考えようと思って考えることはできず、何かに強制されて初めてものを考える、と。
p90

人が望むのは、差異を伴った反復そのものではなく、反復の中から差異を抜き取った習慣という「受動的総合」の中に生きることである。

 人間はこの「至福」の中にたたずむことを望む。だから、思考に向かう積極意志などもたない。p92

人に思考することを強制するシーニュとの出会いは、組織化された習得の期間を必要とする。シーニュとの出会いは、毎回新しいものであるから、人が学ぶことができるのは「私のようにやりなさい」という人間からではなく、「私とともにやりなさい」と言う人間からのみである。

プルーストからベルグソンに視野を移す時、これに新しい問題、問題という問題が付け加わる。人は問題の解にのみとらわれるが、大事なのは問題そのもの、正しく提起された問題である。存在しない問題、提起の仕方の悪い問題をベルグソンは「偽の問題」と呼んでいる。ドゥルーズのベルグソンとマルクスへの言及の中で、國分功一郎は哲学の力を社会の中へ解き放つ上で、重要な総括を行っている。

 文学においても哲学においても、あるいは、人生においても社会においても、人は思考を強制するシーニュと出会うことがある。そのとき、そのシーニュを読み取る術を学んでいれば、人はものを考え始める。しかし、たとえシーニュを読み取ることができても、そこから問題を適切な仕方で提起できなければ、人は偽の問題の周囲を堂々巡りすることになる。たとえば「自由か規制か」と問うとき、もう人は偽の問題に陥ってしまっている、そこで言われる「自由」も「規制」も十分に分析されていないからである。偽の問題には答えがない。したがって、人々はその周囲をただ堂々巡りする。そうして、結局は力関係によってすべてが決定されていく。偽の問題によって得するのは誰か?それは、既に権力を手にしている者、既に決定権をもつ者である。彼らは偽の問題を流布し、人々から思考の自由を奪う。したがって、偽の問題を避ける術を学び、問題を適切に提起できるようになることは、すぐれて社会的で批判的な実践である。pp101-102

大学で哲学を講じる哲学者にとどまらず、アクティブな市民運動家でもある國分功一郎が、自由間接話法によってドゥルーズとともに語る、哲学の社会的役割とはこのようなものである。

同時に、國分は映画を巡る二冊の著作の中で定義されたドゥルーズの主体性の概念に、ある限界を感じ取っている。

思考は、出会いによって強制されて初めて生まれる。したがって、思考することを目指すことはできない。出会いは目指せない、出会いは期待が失望に陥ることによってしか起こらないからである。期待どおりのものに出会えたなら、それは出会いではない。p114

結果としてドゥルーズが提示するのは、失敗を待つことを求める、「最も主意主義的な哲学」ということになる。その限界を打破するためにとった選択肢こそが、ガタリとの協働作業なのである。

『ドゥルーズの哲学原理』(2)に続く】
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