坂口恭平『幻年時代』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
僕の幼年時代、それは幻の時間である。なぜ生きているのか?その意味はもう考えなくていい。あの幻の時間のおかげで今の自分が存在している。
(『幻年時代』p11)
誰も幼年時代の確かな記憶なんて持っていない。
自分で経験したと思ったつもりでも、それは写真の中の光景であったり、親や親戚、兄弟から聞いた話だったりする。語彙力も十分でない子供のころの記憶なんて、半分捏造だ。
手渡された一葉の写真には、海へと繋がる松林の砂利道でベビーカーに乗って泣き叫んでいる僕の姿が写っていた。そうか、写真か。いつ頃かこの写真を見た僕は、泣き叫ぶ自分の目の裏側に入り込み、記憶の風景を勝手につくり出していたのかもしれない。p23
だが、その時間は確かにそこにあったはずのものだ。
過去の記憶と、後からの情報による補正の間の、曖昧で形の定まらない時間に、確かな形を与えること―これが坂口恭平の『幻年時代』(幻冬舎)のテーマである。
幻年の文字は、幼年の文字と空目するほど似通っている。
五体に沁み込んだ直接の情報、脳が周囲から取り込んだ間接の情報、そして想像の産物。これら、幼年をおおうイメージの総体が幻年なのだ。
専売公社の社宅の記憶、プール、クラブハウス、その先に広がってゆく少年のテリトリー、真っ暗な地下水道をたどり、海に至る冒険。松林。アリジゴク…
他人の記憶でありながら、まるで自分の記憶であるかのように、これらの文章は私たちの心の奥底に語りかけ、記憶の扉を次々に開いてゆく。
幼いことの不安と恐怖、それと対をなす根拠のない自信、全能感。その感覚が、私たちをあの時代に引き戻す。
『幻年時代』は、時間の秩序によって編成されているのではない。子供が少しずつ自分の周囲に広げてゆくテリトリー、心理的空間の秩序によって構成されているのだ。
パッチワークのように、同年代の少年達が、父や母、周囲の大人たちとともに、登場人物となりながら世界を広げてゆく。
坂口恭平が描く坂口家の肖像には、すでに独立国家の祖型がある。
そして、無数の創造行為、アートのレイヤーがすでにそこで生成している。空想の持ち家遊びの図面作りは、シームレスで『思考都市』の世界へつながっている。
図面をつくることは楽しかったが、しかしもの足りなさもあった。ドブ川の冒険のような、からだ全身で感じる遊びをすでに経験していた僕は、平面図の中だけで獲得する空間の現実味の薄さに気づいていた。改良すべき点も見えていた。立体をそこに導き出さなくてはいけなかったのだ。それを実現するための技術の必要性に駆られた僕は、母ちゃんが持っていたインテリアに関するいくつかの資料を読み、その結果、平面図ではなく、三次元の世界を表現する方法を習得した。真四角の線の四つの角から斜め四十五度左に傾けた線を引き、その線の長さが天井までの高さになることを知った僕は、まずは家、次に調度品、そこに住む人間、最後に屋根までをも紙の上で立体化することに成功した。それ以来、僕はセキスイハウスへの憧れを捨てた。つまり、僕はほしい空間を自分でつくり出せることを知ったのだ。p123
幻年時代とは、現在と過去との終わりのない対話である。その行為を坂口恭平は、諜報活動と呼んでいる。
四歳の私は言葉を詳細に語ることができない。しかし、映像は、空間の感触は、記憶することができる。そこで私は、四歳の坂口恭平という現象が持っている技術と通信、録音、録画システム、空間把握コントロール器を操りながら、詳細にその人間という動物の持つ暗号を解読する鍵を探すための諜報活動を続けている。p169
母親に連れられ、「僕」は幼稚園に行く前の踏切の前で、立ち止まっている。すぐそこにまで見えている幼稚園と、本の中の「僕」は足を踏み入れることなく、手前の世界にとどまり続けている。
純度の高い詩的な文体、名づけられない子供のころの感覚を、現在の語彙力で忠実にたどり解読しようとする試みは、反時代とも言える自伝文学の傑作を生み出した。
それが『幻年時代』である。
関連ページ:坂口恭平『思考都市』