瀬戸内寂聴・美輪明宏・平野啓一郎『日本人なら「気品」を身につけなさい』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本
そんなテレビで、日本の政治家が虚勢を張るのは品のなさにつながる。劣等感を隠そうとするからだ。自然体にさらけ出した方が素敵に見えるという話の流れになる。
あるいは、鏡の重要性について。鏡は魔よけでもあるが、何よりも自己点検の道具である。
人は見られ、自意識を高めることによってきれいになるのだ。よくある新人タレントの話でも、美輪氏の言葉の鋭さに磨きがかかる。
それから、作家が真面目になりすぎていて、不良がいなくなったのは、嘆かわしいという話も面白い。
二人の熟女(?)に圧倒され、平野氏は「そうですね」しか言えないように見えるが、もちろんしっかり自分の意見も述べている。
この、本が売れる売れないの話は、後になって瀬戸内氏の口から質の高さの話となってくり返される。
そう言いつつも、つまらない本が何百万部も売れているのをみると、こんちくしょうと思うと直後に語る瀬戸内氏なのだが、内なる基準としてはそうなのだろう。
そしてきわめつけは、美輪氏の十八番である正負の法則である。しかし、この話題について、一番雄弁に語っているのは、瀬戸内氏である。
人生の浮き沈みを、観阿弥にならい、それぞれ「雄時(おとき)」と「雌時(めとき)」と呼ぶならば、「雄時」は何をやってもうまくゆく時、そして「女時」は何をやっても失敗する時。その過ごし方について、瀬戸内氏はこう語っている。
この対談の全体の中で語られているのは、言葉の職人、芸事に携わる人間としての、プロフェショナルの流儀である。そして、恋愛や人生の達人として、長年サバイバルしてきた経験から来る重みのある言葉、知恵の数々だ。そういう意味では、齢の甲の足りない平野氏は、フォローされつつも、熟女(?)二人の毒に押されっぱなしでいささか分が悪い(まあ、6年も前のことだし…)。
そう、最後を飾る目に見えない世界、スピリチュアル系の話題に関しては、途中約8ページにわたり沈黙を守りっぱなし。その中身は、読んでのお楽しみということで。
関連ページ:
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』
平野啓一郎『空白を満たしなさい』
作家平野啓一郎氏の本は、すべて押さえているつもりだったが、この本は知らなかった。
著者名の並びを見たときは、思わずのけぞったものだ。
それだけ豪華なメンバーであり、想定外の組み合わせだった。
だが、テレビを小まめに見ている人には、スムーズに受け入れられる本だったのかもしれない。
『日本人なら「気品」を身につけなさい』(扶桑社)は、実は2007年にフジテレビ「ボクらの時代」で放映された対談の文字起こしである。
この種の本の常として、若干の編集、加筆・削除・訂正が加わっている。
1〜2時間もあれば読みきれる本だが、内容も思った以上に楽しく、面白く、読んで肩の荷が軽くなるような本である。
観念的な議論にとらわれることなく、感覚的にフリーダムそのもので話を進めてゆく瀬戸内寂聴氏と美輪明宏氏。二人の熟女(?)の中に巻き込まれ、翻弄されながらも、作家としての矜持をぎりぎりのところで維持しながら、心地よく浮遊する平野氏。
その掛け合い漫才的な言葉のやり取りが、何とも楽しいのである。
特に印象的な言葉をあげてみると、テレビは正直なメディア、中身がないとそれがそのままさらけ出されるという話。
瀬戸内 テレビって正直なの。中身がない、心にもないことをしゃべっていると、顔にありありとそれが出てくるのね。テレビって本当に怖いですよ。
美輪 その人の心象風景まで映すでしょ。
瀬戸内 嘘をついているな、っていうのも表情に出てくる。あれはすごいですね。写真は一瞬だからごまかせるけど、テレビはごかませない。p14
そんなテレビで、日本の政治家が虚勢を張るのは品のなさにつながる。劣等感を隠そうとするからだ。自然体にさらけ出した方が素敵に見えるという話の流れになる。
あるいは、鏡の重要性について。鏡は魔よけでもあるが、何よりも自己点検の道具である。
美輪 でね、鏡っていうのは点検するための道具でもあるんですよ。だから、役者のような商売をやっているのに、鏡を見るのが嫌いなんていう人を、私は信用しないんです。常に点検してないとね、油断をしていると、油断した肉体になるんですよ。p33
人は見られ、自意識を高めることによってきれいになるのだ。よくある新人タレントの話でも、美輪氏の言葉の鋭さに磨きがかかる。
美輪 最初はスターじゃない人―芋の煮っ転がしみたいな人―が、本当にスターになってくると、整形なすったわけでもないのに、ちゃんと見られる顔になってくるんですね。p35
それから、作家が真面目になりすぎていて、不良がいなくなったのは、嘆かわしいという話も面白い。
美輪 作家っていうのはね、いびつでないと作品を書けないものでしょ。
平野 そうですね。
瀬戸内 だいたい、作家なんていうのは不良がなるもんでしたからね。昔は作家なんて、ならず者がなるものだったんですよ。それが、今は、「先生」とか「識者」とかって言われてるでしょ。それがおかしいんですよね。
平野 そうですね。
瀬戸内 そんな人はほかの仕事もできる人なんですよ。だから、作家しかできないっていう人が作家にならないと、面白くないですね。p51
二人の熟女(?)に圧倒され、平野氏は「そうですね」しか言えないように見えるが、もちろんしっかり自分の意見も述べている。
平野 なんかこう、非常識と思われるのが嫌だとか、本がたくさん売れてほしいとかいうふうに考え出すと、簡単に理解されるような意見しか言わなくなっちゃったり。もっともらしいことばっかり並べてみたりしてね。p53
この、本が売れる売れないの話は、後になって瀬戸内氏の口から質の高さの話となってくり返される。
瀬戸内 自分が馬鹿でわからないからこそ、程度を下げるんだと思う。だから、本を作っている人でもね、「こうやったら売れるんじゃないか」と思って、程度を下げれば下げるほど本は売れなくなるの。p77
そう言いつつも、つまらない本が何百万部も売れているのをみると、こんちくしょうと思うと直後に語る瀬戸内氏なのだが、内なる基準としてはそうなのだろう。
そしてきわめつけは、美輪氏の十八番である正負の法則である。しかし、この話題について、一番雄弁に語っているのは、瀬戸内氏である。
人生の浮き沈みを、観阿弥にならい、それぞれ「雄時(おとき)」と「雌時(めとき)」と呼ぶならば、「雄時」は何をやってもうまくゆく時、そして「女時」は何をやっても失敗する時。その過ごし方について、瀬戸内氏はこう語っている。
瀬戸内 「雄時」のときには驕らず、「雌時」のときには僻まず、耐えるしかないですよね。そうしていれば、同じ状態が続くわけはないから、必ずまた「雄時」が巡ってくるんですよ。もう、それを待つしかない。ただ、その「雄時」が巡ってきたときに、それをパッとつかまえるのは大事ですね。チャンスをつかまえる勘がなければダメね。でも、実際にいいことが来ているのに、その勘が鈍くてチャンスをつかめない人がいますよね。それはダメ。成功する人を見ていたら、やっぱりその勘がありますね。「今だ」っていうときがわかるの。p66
この対談の全体の中で語られているのは、言葉の職人、芸事に携わる人間としての、プロフェショナルの流儀である。そして、恋愛や人生の達人として、長年サバイバルしてきた経験から来る重みのある言葉、知恵の数々だ。そういう意味では、齢の甲の足りない平野氏は、フォローされつつも、熟女(?)二人の毒に押されっぱなしでいささか分が悪い(まあ、6年も前のことだし…)。
そう、最後を飾る目に見えない世界、スピリチュアル系の話題に関しては、途中約8ページにわたり沈黙を守りっぱなし。その中身は、読んでのお楽しみということで。
関連ページ:
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』
平野啓一郎『空白を満たしなさい』