JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
破局、社会全体ではなく個人の破局はどのようにして起こるのだろうか。唐突に起きた出来事単独であるならば、それは破局ではなく、一種の災難である。破局とはそれまでの積み重ねによって築かれた関係性が行き詰まり、崩壊してしまうことなのだから。破局は、様々な出来事の積み重ねによって、あるべきコースから次第に外れてゆき、それまでにあった調和の世界の中に、不協和音がしだいに増え、混沌とした状態へと事態が変化してゆくことを意味する。
遠野遥の『破局』( 河出書房新社) は、通常の、どちらかと言えば恵まれた学生生活を送っている学生が、その過剰なエネルギーのコントロールを抑制できず、人生の破局へと至るプロセスを描いた物語である。
語り手である陽介は、三田にある大学法学部の卒業を間近に控え、公務員試験合格のための受験勉強に日々励んでいる。その一方で、出身高校のラグビー部のコーチとして、後進の指導にあたっていた。彼には、長い付き合いの彼女もいた。政治家志望の麻衣子だ。周囲からは公務員試験の合格も有望とみなされていた。彼の人生には何の曇りもないように思われた。
ある日、キャンパスでの漫才のライブで気分の悪くなった後輩の女子学生灯(あかり)と出会い、そのままカフェに誘い、いつの間にか交際するようになる。ちょうど、それまでの彼女の麻衣子が政治家になるための活動で、疎遠になりかけたころだった。
はじめは初心であった灯は、しだいに奔放な性格へと変わってゆく。そして、ラグビー部の指導も、昔ながらの体育系の精神論をふりかざす陽介と、今の部員たちの頑張りの不足にしだいにいらいらを募らせるようになるのであった。
元カノと今カノとの三角関係。部活動のジェネレーションギャップ。すべてはどこにでもあるようなシチュエーションのように見える。だが、躓きの石もまた誰の目の前に転がっているものである。何によって人は破局に至り、何によって人は順調な人生を歩み続けるのかを、簡単に言い表すことはできない。
ある種の過剰が、それを引き起こすのかもしれない。性欲の過剰、後進指導への情熱の過剰。社会の仕組みへの適合の過剰。
そして、意識してか、無意識のうちにか、陽介は絶えず、自分のあるべき姿を自分自身に言い聞かせるようにして、自分の言動をそれにふさわしくコントロールしようとする。けれども、その縛りは個人の倫理というよりも、社会的なペルソナ、仮面によるものだろう。
席と席が近いことにかこつけて、私はこの女にわざと脚をぶつけようとした。が、自分が公務員試験を受けようとしていることを思ってやめた。公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきではなかった。p22
そして、一応の遵法精神も持ち合わせている。だが、つねにある不自然さ、ぎこちなさが伴う。
酒が飲める店に連れていくつもりだったけれど、ふと気づいて灯に年齢を聞くと十八だというからやめた。灯の体を思えば酒を飲ませるわけにはいかないし、何より法律で禁止されていた。p30
その歪さが感じられるのは、勉強と筋トレに、自慰が並置されていることだ。カテゴリーの異なるセックスが混じるためではなく、他の二つさえ一種の自動機械による作業のように思えてしまうのである。
麻衣子の誕生日以降、私はほとんど誰にも会うことなく公務員試験の勉強に集中した。筋トレと自慰と勉強を繰り返すだけの日々だ。特別記憶に残ることもなく、毎日があっという間に過ぎた。p43
『破局』は、いろいろな意味において、古典的な作品である。崩壊というテーマも、スコット・フィッツジェラルドの小説ではおなじみのものであるし、小さな出来事の積み重ね、すれちがいにより、エネルギーが高まり、一気にラストに向けて、エネルギーが放出されるプロセスも、古代ギリシアの悲劇から、スティーブン・キングのホラー小説まで、共通したドラマツルギーの産物である。
そこに至る上で、現代の学生の生態を、まるで他人事のように、冷ややかに異化して見つめる乾いた視線が有効に機能している。身近でありながらも、空虚に見える学生生活の違和感が、作者にこの小説を書かせたのであろう。ゾンビという言葉は、まさにこの意味において使われている。空気を読む力がありつつも、あえて空気を読まないことが、現代の作家にとっての必須の資質なのだ。
『破局』は、いつしか自らが望まぬ人生を、何かの力によって歩んでしまいがちな私たちの社会を冷徹に見つめ、その割れ目を示すことによってカタルシスを感じさせてくれる傑作小説なのである。
*『破局』は、第163回芥川賞を受賞した。