JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)は、表題作など8編からなる短編集。家族を語ることの抑制から解放されたエッセイ『猫を捨てる 父親について語る時』以降の変化が、その作風にも現れている。だからと言って、村上春樹が急に私小説を書き始めたというわけではない。
何篇かの作品は、主人公の属性がそのまま村上春樹を反映していると思われる人物であったり、村上春樹という名前がそのまま、自分のこととして登場さえするのである(「「ヤクルト・スワローズ詩集」」)。
もしひょっとして歴史年表みたいなものを今お持ちなら、その隅っこに小さな文字でこう書き加えておいていただきたい。「一九六八年、この年に村上春樹がサンケイ・アトムズのファンになった」と。
『ヤクルト・スワローズ詩集』なる書物が本当に存在するとすれば、この一編はエッセイとなるところだが、実は再々あちこちの文章で言及されてきたけれども、その実は出版されたことのない、冗談から出た架空の書物であり、この一編は『ヤクルト・スワローズ詩集』という架空の書物をめぐる物語なのである。
架空の書物に関して、実在の書物に劣らぬ蘊蓄をもってまことしやかに語るのは、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの十八番であるが、村上春樹の十八番はデビュー作『風の歌を聴け』以来、架空の音楽や音楽家をめぐる物語であるだろう。「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノバ」はまさに、チャーリー・パーカーの存在しないレコードに関する文章を主人公が洒落で書き、タイトルも曲目もそのままのそのレコードをあるレコード店で見かけるところから、物語が広がってゆく。
もちろんその音楽は実在しないものなのだが。あるいは実在しないはずのものなのだが。
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」では、ビートルズが大ヒットを飛ばした1964年のディスコグラフィーを語りながら、ビートルズのレコードを脇に抱えた少女の思い出からそのころ交際していた別の女の子の思い出へとつながってゆく。「謝肉祭(Carnaval)」では、シューマンの『謝肉祭』の何十というレコードについて会うたびに語り合った今までで出会ったもっとも醜い、だがそれゆえに人を惹きつけずにはおかない女性が主題となっている。音楽が想起する幻影、音楽と結びついた女性の記憶によって、『一人称単数』の半数以上の作品は構成されているのである。
これらは音楽批評の余白に作られた物語ということができるだろう。
そして、「クリーム」でも、冒頭のエピソードは、昔一緒にピアノを習っていた女の子からの演奏会の招待状から始まる。彼女は実在するのに、行ってみるとそのコンサートの会場は消えてしまう。存在と非存在を組み合わせることによって、『一人称単数』のほとんどの物語は成り立っており、音楽はその存在の側に置かれたり、不在の側に置かれたりする。
冒頭を飾る「石のまくら」も、歌がモチーフになっている。最も、この歌は、歌曲ではなく短歌なのだが。一冊の歌集を出した女性との一夜の記憶が、平安時代の歌物語のように語られる。ここで引用される(つまり村上春樹によってつくられた)歌は、秀逸でその狂おしさがエピソードの少ない物語をしっかりと支えている。
今のとき/ときが今なら/この今を
ぬきさしならぬ/今とするしか
こうしてみると、実は『一人称単数』の8編中6編までが、音楽や詩歌の生み出す幻影に人物をからめることで成り立っていると言えるのである。残る二作は、本物の猿が語りだす「品川猿の告白」と、表題作の「一人称単数」ということになる。「一人称単数」は、ふだん着慣れないスーツを着たことで生じる違和感、齟齬がテーマとなっている。「品川猿の告白」は、村上春樹らしい純然たるファンタジーである。
『一人称単数』は、私小説に近づいたのではなく、あくまで物語のフレームとして「村上春樹」という社会的存在、社会的に流布した情報を利用しているだけで、そのストーリーテリングの本質は大きく変わることはない。それは、実在する音楽や作品、人物の傍らにさまざまな幻影を生み出し、虚実の境界が定かでない戯れとともに物語を作り出す。あるいはこの戯れそのものが物語なのである。唯一変わったのは、村上春樹という固有名詞や伝記的情報をも素材としつつ、その虚実の幅を広げたことである。『一人称単数』の最大の魅力は、作品ごとに変わりゆく虚実のあわいを楽しむところにある。
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